勅使河原蒼風3いけばなの成立と近代いけばな(広瀬典丈)


目眩めく生命の祭-勅使河原蒼風の世界3 →4 →5
Paper of Ikebana (Michtake Hirose ) 1← 2←
(広瀬典丈)
エディット・パルク(2002年2月20日発行)
 ウ617-0822 京都府長岡京市八条丘2-4-14-506
 TEL075-955-8502
○定価 1,600円+税 ご注文は、書店、出版社、私たちに直接でも結構です。(ISBN4-901188-01-1)
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(3)いけばなの成立と近代いけばな

Contents_まえがき (1)勅使河原蒼風の作品イメージ
(2)草月流と「近代芸術」
(3)いけばなの成立と近代いけばな
1いけばなの成立 2いけばなの様式 3いけばなの近代 4山根翠堂と自由花
5重森三玲と『新興いけばな宣言』 6山根翠堂のいけばなの近代性
(4)勅使河原蒼風のいけばな (5)勅使河原蒼風の彼方 あとがき

1 いけばなの成立

いけばなが、世界的な「生命樹」信仰のアジア型のモチーフを強く持った世界であることは第一章でも触れた。(注1)小袖の「立木文様」にもある、「中心にうねる宇宙樹を置き、百花を咲かせる図像」である。杉浦康平は、小袖が身に纏われるものであることにも着目する。そこでは、うねりながら立ち上がる樹木の幹は着る人の背筋に一致し、生きた女性がそのまま花咲く生命樹に見立てられている。生命樹と人が重なり合った表徴であろう。彼はそこからアジアにおける「生命樹」のかたち、ヘビと樹液、聖獣へと話を進め、「日本」の昔話といわれるものにもある「話す樹」説話なども例にとって、沸き立つ生命の信仰を説明する。ス「日本」というテレオタイプ化された舞台を取れば、詩歌、劇、物語、絵画、音楽などに現われる季節の感受の対象として、雪・月・鳥・鹿・虫などといくらでもあげられるが、実際草木・花実は人の身体や心と即応する不思議な場を持っていて、内に深く浸透し、人の心の形象化でもある。
自然に生命を見、人が一体感を持つのは、西洋の汎神論なども同じだろう。しかし、西洋では、草木という自然の感受を、自我と自然の相互関係を軸として論理化し、その統一の場としての「身体」が、「自然」に織り込まれていくという構図によって,、人間主義的な文脈につながっていく。人の生の体験の全てを、一神教の神と人間、父と子を中心にした、合理的な配置で説明しようとする意志が、やはり感じられるものが多い。西洋の中心的な思想は、どうしても心身二元論であり、多神論・アニミズムは、克服されるべき迷信というのが、一般的な考え方なのである。
いけばなには、人と自然が多義的なまま共鳴し、自己同一化するような、一体的な自然観がある。たしかに草木はわたし達自身とどこかで共鳴している感じがして、草木を切っても裂いても、人はそれを痛みとして感じることがある。人々の心を騒がせもし落ち着かせもするもの、彼方で人を誘うもの、草木はいつもそのような、肌に触れる出来事として受け止められてきた。草木への共感なしにはいけばなは成立しなかっただろう。人は、草木の不思議な表情や快い枝ぶりにリズムを感じ、まるでそれが自己の身体と響応するように、草木と触れ合っている。
草木の何かが心を打つのだ。切った草木を回すと、日裏(ひうら)、日表(ひおもて)、枝の右振り、左振りが示される。それを日表を正面にして前に倒していき、今度は茂った葉や花の部分を少し残して他を取り去る。すると隠されていた枝の線が現われ、残された葉と花は、前とはまるで違った密度で人の目に迫る。草木は、ある部分が省かれ他の部分が強調され、全体としては自然よりもずっと単純な形を与えられて、いけばなの構成に入る。人はいけばなをいけるとき、材料を使って何かを作っているようにも見えるが、一方、人と草木がお互いによく知り合った仲のようにして、一つの仕事を成し遂げていくようにも見える。人は草木を支配しているのだろうか。それとも草木が人を彼方に誘うのだろうか。
いけばなの成立がいつであったかとか、当初それがどのようなものであったかなどは、作品が残らない性質上、いけばな図や伝花、伝書などに頼る他ない。今残るいけばな伝書が、どの程度いけばなの古い形を伝えているのかはわからないが、当時のいけばな観や自然観、人々をとりまく「道具」配置の脈絡とそのイメージを伝えてはいる。
初期のいけばな伝書である『仙伝抄』、『専応口伝』、『文阿弥花伝書』などは、室町幕府の公的座敷飾りの典範書である、『君台観左右帳記』の延長線にできた書であり、座敷飾りの道具の優劣や、その並べ方、禁忌を扱うというその書の、いけばなに関する増補と考えられるところから出発した。そこには、いけばなをいける人と自然の関係などについての記述はほとんど無い。はなをいけることの効用を語る部分を『古今集仮名序』に倣う『専応口伝』はともかくとして、〈しん〉と〈下草〉の均衡や枝処理などに関する注意が、思いつくままに箇条書きされるといった体裁のものであり、技法上の注意点が、その時代の書院建築と座敷の道具配置や禁忌との結びつきで説明されている。
しかし、その中で『専応口伝』は、後のいけばな伝書の規範ともなった、当時もっとも整合されたものである。いけばなを中心化することによって、座敷飾りの規範を『君台観』的な狭い「中国」趣味から解放し、独自の方法で座敷飾りの理論化を進めようとしているなどは画期的で、冒頭の序文も有名である。

花瓶に花をさすこといにしへよりあるとはききはべれど、それはうつくしき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまへず、たださしたるばかりなり。この一流は野山水辺をのづからなる姿を居上にあらはし、花葉をかざり、よろしき面かげをもととし、……ただ小水尺樹をもつて江山数程の勝概をあらはし、暫時頃剋の間に千変万化の佳興をもよおす、あたかも仙家の妙術ともいつつべし (注2)(『専応口伝』天文十一年)

ここで専応は、池坊のいけばなが、ただ美しい花を賞するのではなく『草木の風興』を考えながら少しばかりの水と小枝で「野山の『自ずから成る姿』をあらわし、それによって広大な景観と千変万化の佳興をもよおさせる妙術だ」と言っている。
『専応口伝』では、この序の次に三具足、押板(床の間の先駆となる飾り板)、中尊の花など、花を飾る場所の問題から花の技法・約束、季節による節句・祝儀の花、禁忌などの諸注意が列挙され、最後に結語として次の文が来る。

先一瓶のすがた尋常に立のびて、上にてくつろぎ、中程に道具おほく、枝葉のはたらき色々に、草木のしな一種々々にありありと見所おほく、こまやかにみずぎはほそく、すぐやかにさしたる花をよき風躰とは申也。

この結語は、それだけでは抽象的に聞こえるかも知れないが、その時代の立花図(『宗清花伝書』『賢珠花伝抄』)を合わせると、当時のいけばなのイメージは、かなりはっきりと掴むことができるものなのである。(注3)
いけばなでは、草木の花・実だけでなく、枝や葉が重要で、たいていのいけばなが、葉を持つ枝〈しん〉と、草花〈下草〉という基本的な形で構成されてきた。『専応口伝』では、〈しん〉と〈下草〉を定義するような直接的な言及はほとんどないが、その頃にはすでに、そうした形式は、いけばなにとって説明を要しない前提となっていたのであろう。『仙伝抄』中に紛れた古い伝書『奥輝之別紙』にはそれに関する記述がある。

三具足のはなは、しよくだいに対して、右長左短、古今遠近と、たてべし。……古今といふは、古とは、一季さりたるはなをいふ。今とは、当季のはなをいふ。遠とは、風情たかく見へたる本木をいふ。今とは、そへ草の水ぎはにて、ありありとしたるをいふなり。花の木をしんといふ心は、人間も、能ありといへども、心さだまらざるは非興也。そのごとく、花も本木のつよくなきはあしきなり、さてこそ、本木をしんといふなり。

ここでは、〈本木〉と〈そえ草〉が、いけばなの奥行の問題と考えられていると同時に、〈しん〉が骨格の中心ともなっていることが説明されている。しかし、〈古今〉とはどういうことか、この説明ではあいまいな気がする。「仙伝抄」本文中には禁忌の一つとして、〈古今遠近〉が取り上げられている。

ゑんきんとは、うしろに野をみせ、まへに山をみる。これをきろふなり。うしろに山を見、前に野を見べし。惣じて、遠近とたつるはなは、うしろに山の心をたて、まへに野をたて、うしろの山をへつらわずたてべし。これを遠近花といふ。

〈しん〉と〈下草〉による作花技法がもっと素朴に語られており、いけばな図も詳しいのは『唯心軒花伝書』である。その冒頭には次の文章がある。

古今遠近ト云ハ、ウシロニ立テタル遠キ枝ハ、スナハチ古也。マヘニヲク下草ハ近ナリ。……ナゲテ遠クユク枝ヲ古遠ト申也。花ノスガタノ事。先花瓶ヲ能々ミテ心ヲスヘ、心ニ随ヒマタ下草ヲソロヘ候。水キハヲタシナムベシ。四方ニソヘテユク下草ハ、一寸チガヒニ立ヘシ。

『唯心軒花伝書』では古今遠近として、後ろの枝、つまり〈しん〉のことを〈古〉、手前に置く〈下草〉を〈近〉(今)としている。「山と野」、「本木と下草」、「後ろと前」、「古今」、「遠近」、こうした言葉で語られる内容ははともかく、枝と草花という二つの「もの」の出合いが、そこに厚みのある一つの出来事を浮かび上がらせる、という構成をとっている。そしてこのことは、いけばなが現在までほとんど変更無く継承してきた、いけばなの型の核心なのである。
祭式としてのいけばなの道具立てとしては、季節を越えてその葉を保持していく常緑樹が、永く古い自然を現し、落葉樹は、新芽、つぼみ、花、新緑、果実、紅葉、落葉という四季の変化を現す。四季折々に咲く草花は短い生命の輝きによって人々の心につながる。奥山から人の心へと近づいてくる、また逆に、人の心から奥山へと向かう、彼岸と此岸を結ぶパースペクティブを構成していた。枝を〈古遠〉、草花を〈新近〉とする時空的な対比の遠近法は、生命と生成に関わる祭や劇のイメージを浮き上がらせる。しかし、ものの出合いが出来事を生み出すという構図は、それよりもっと自由で即興的な世界の立ち上げであり、ものがことを呼び寄せる、叙情の基本的な形である。
「日本語」の詩歌について語る中で、中西進は次のように言っている。

自然は「もの」と言われ、現実の真実なるものとして認識されていた。それに「こと」(言)を向けることによって人間の領域に「こと」(事)として導いてくる思考方法があった。(注4) 

いけばなは、季節の節目毎に、人々にとって生の味わいを知り、思い出を連ねる共感の場として、自然と人をつなぐ窓口となった。いけばなは書画や骨董などとともに書院や床の間の座敷飾りの一部として秩序立てられ、配置されてきたのである。いけばなの元になる枝振りや構成は、初めは「中国」の景勝、直接には宗・元・明代の水墨山水画が持つ遠近法、下方にある人から上方の空までの深遠な時空をモデルにした。その配置は、人と自然を結ぶ距離の異なる二つの「もの」に単純化され、短歌の「野・里と花」、音楽の「鼓と笛」、絵画の「梅とうぐいす」、陶磁の「胎と釉」などとも呼応する、さまざまな対比構成の広がりを作り出す。それ自体が生に対する視点の取り方なのである。それは例えば、『華厳経』の菩薩の修業階梯のような、いちばん手前の人から、自然の最奥までつながる、時空的・層的な宇宙観とも根底ではつながっている。

凡初頓の花厳といふより法花にいたるまで花を以て縁とせり。青黄赤白黒の色、五根五躰にあらずや。冬は群畿卉凋落するも盛者必衰のことわりをしめす、其中にしも色かえぬ松や桧原はをのづから真如不変をあらわせり。(中略)そもそも是をもてあそぶ人、草木をみて心をのべ、春秋のあわれをおもひ、本無一旦の興をもよをすのみにあらず、飛花落葉の風の前にかゝるさとりの種をうる事もや侍らん。

『専応口伝』で「仙家の妙術ともいつつべし」 の次に来るのがこの文章である。その後も、いけばなの図像としての意味は、森羅万象の内に神々を見出す、古い信仰や華厳的な世界認識、禅、阿弥陀経、朱子学、易学、曼陀羅など、何でも役に立ちそうなありがたいものを動員して説明されている。人々向けの宣伝の能書きに過ぎないが、いけばながもたらす「佳興」について語られるときには、いつもこうした構造が前提されてきたという、「伝統」を否定することはできないだろう。こうしていけばなは、搭頭を荘厳し、書院飾りや城郭飾り、茶室、床の間というように、武士貴族から庶民に至るまでの日常世界をも聖化する役割を担ったのである。

2 いけばなの様式

いけばなは天文時代の花伝書類でも、景観だけでなく身体の比喩によって語られている。『仙伝抄』〈しん〉と〈下草〉のバランスの説明中に以下の文がある。

くわひんをよくよく見て、このくわひんには、如何様にたつべきや覧と、自由に案じてたてべし。百瓶かはりてたつるとも、目の有所には目をつけ、はなの有所には、はなをつくるやうにたてゝ、いつく(美麗)やらん。面白やうにたつるが、上手なり。けいこのたらざる人は、あたらしく初てあるかたちを、面白おもひて、めのあり所に、口をつけんとするによって、よくよく見れば見ざめしてあしゝ。

いけばなは中央に〈しん〉、手前に〈下草〉を置く配置や、〈しん〉の左右前後に枝を斜めに配し、水際を細く一つにする形にまとめられた。「立花」や「立華」、「生花」の系譜である。それは、自然の枝をはった樹木や草花の形象化であるとともに、自然の理想の景観と考えられ、さらに、身体とも響応して、人の手振りとその眼差しを、その形の内に引き込む。もちろん、景観も人々の体やその動作の枠で計られ、人の身近に置かれる限り、身体の図式であることに変わりはない。いけばなは、自然景観と身体という二つの極を持つ枠組、あるいは両者の共鳴形態と考えられるパタン構成によって、整えられていった。
いけばなの手法としてもう一つ、花型の三点構成法がある。いけばなの花型を、はっきりと三つの役枝の頂点を結ぶ不等辺三角形、もしくは直角二等辺三角形に抽象したのは、江戸時代、生花成立以降のことであろうが、それ以前から、部分や全体を構成する手法として定式化されていた。生花の三本の役枝の長さの長短と、その配置による三点構成は、対象形、平行線、交差、丈くらべなどという、当時のいけばなの禁忌の排除を目的とした自然らしさ、「自ずから成る姿」の典型としてでき上がっていったと考えられる。この三角形は生花の葉組みや、立華の道具造りの中にも見いだされるものである。現在に伝わる最も古いいけばな伝書に『花王以来の花伝書』という絵図がある。これには天文年間以降の花伝書と異なり、三具足のような書院飾りのいけばなが無い。この時代には、三具足の立花がいけられていたことは、『慕帰絵詞』の図でも確かめられるが、この絵図のいけばなは、あまり規則を定めない、なげいれ花の系譜につながるものである。しかし、ここでも〈しん〉と〈下草〉の構成法とともに、三角形の構図を見つけだすことができる。
いけばなには初期から、自由で景観描写風のなげいれ様式と、「君台観」的な書院飾りとして方式化されていった立花様式という二つの系統があったという推測がなされている。(注5)いけばなの世界で、その後、江戸期から近代を通じて続く、「格花」と「なげいれ」という二つの潮流は、いけばなの成立期には、すでに分岐していたのである。書院飾りの雅びと数寄屋の侘びは、対立的・対比的、全体としては相互作用として機能していた。いけばなの場合も同じである。後には格花として扱われた生花が、なげいれ花からの立華に対する規則の受容という側面を持っていることからもわかるように、この二つは互いに影響し、相互浸透する関係にもあった。なげいれ花は、自由な叙情的表現と簡略な技法によって、さまざまな場所を飾る道具としての地位を確保し、一木一草という侘び茶の理念にかなう、茶花を茶室に供給した。しかし一方で、「なげいれ」は、その最も初期から「立花」・「立華」への規範化がなされたように、江戸期には「立華」の影響下で「生花」が生まれ、明治以降には「生花」の影響下で、「盛花」・「投入」に役枝の約束が導入されたのである。
「立花」・「立華」の側はどうだろう。二代池坊専好は、なげいれの名手としても知られていた。桃山期から江戸初期にかけて、多くの分野で示された旺盛な制作力は、いけばなの世界にも現れている。桃山期の城郭建築と結びついた、いけばなの大型化への対応が、書院飾りとしての立花を完成期立華へと発展させたのである。立華は役枝を増やし、その重層的な形態をまとめあげていった。
その方法は、まず全体の統一として〈しん〉と〈下草〉の大枠を決め、大枠を支えつつ、その枠組の中で上下、左右に各部の役枝によってそれぞれの〈しん〉と〈下草〉による三点構図を重層するという、複合花的な構成法である。そうした重ね合わせを一瓶に盛り込みながら、初代・二代池坊専好の頃には、立華の大きさは横幅数メートルに達するようになる。当時の立華の構成枝は、垂直・水平・斜め、左右・前後とその場の条件に応じて、あらゆる方向性を与えられ、奥行きを決定していくのであるから、その道具立てに固い決まりがあるはずもなく、その手法は、なげいれ花にも似たアドリブ的な場面展開の手法、言い方を変えれば、立華となげいれの統一としてこそ実現したのである。(注6)専好の立華には、豊かな多様性と同時に、草木の持つ素直で簡素な表情がそのまま保たれている。作為的な枝をあまり作らない「うぶ立て」という手法である。
彼らのいけばなの全体が、当時の立華という主題の、さまざまな変奏にほかならない。変奏は決まった約束を持っているように見えても、実際にはその場に対応するための、常に新しい解釈であり、世界はそれによって、そのたびに組み合わせやバランスを変えて裁ち直されていく。専好の立華は、人々を捉え引き込んでいく生きた舞台であり、いつも、でき上がった立華の様式からはみ出す、新しい展開のための途中経過だった。それは草創期の人間だけが持つ自由である。桃山から江戸初期の社会制度の流動化がそれを可能にしたともいえる。そしてそれは、当時の城郭などの大広間を飾る襖絵や欄間彫刻、家具調度といった座敷飾りの大規模な展開と呼応し、他方では数寄屋造りの茶室にみあう、なげいれ花のさらなる簡素化(茶花)という、幅広い振幅を獲得し得たのであった。

3 いけばなの近代

明治の革命は江戸時代の秩序を破壊し、その国家編成は西欧の制度を移植しながらのものだった。いけばなも一度はその基盤が失われながら、明治体制が安定すると、今度は近代社会を支える婦女子教育という名分を得て蘇っていく。そのいけばなは、規格化された江戸期そのままの窮屈な「格花」で、その様式は大正、昭和、第二次大戦後、現在でも命脈を保っている。
明治以降、最初に庶民がめざした生活世界のモデルは、江戸時代武士階級のそれで、家には必ず床の間が置かれていた。明治以後の床の間の普及とともに、いけばなは習われるようになったのである。国家は、封建的な社会秩序を組み替え、均質な「日本国民」の形成を目指していた。儒学や禅を支柱とした士族精神が、「富国強兵」、「国民皆兵」を支える「日本魂」として理想化・一般化され、「日本人」の目標とすべき精神として称揚されたのである。それをなぞるように庶民の上昇志向は生まれ、良家の女子の習い事が始まる。それは明治期庶民文化の大きな流れの一つである。
しかし、いけばなにとっての明治時代は、その存立が問われる危機であったことも事実であり、その形式や構造を問い直し、組み替えていく機会となったはずである。もっとも、小原雲心が一九一〇(明治四十三)年になって、ようやく池坊から独立した点から考えると、「盛花」「自由花」など、新しいいけばなが確立されていったのは、明治もかなり後のことであろう。
「日本美術」確立が、明治の十年代〜二十年代頃(一八八〇〜九〇年代)とすれば、いけばながいかに出遅れ、古い基盤に取り残されていたかがわかろう。ウィーン万博(明治六年)以降の工芸品輸出、殖産興業政策も、そのものの商品化と輸出ができないいけばなには不利だった。そして、西欧のジャポニズム終焉とともに日本の工芸品輸出の波は引き、十九世紀末から二十世紀、「芸術」の時代が始まる。日本の社会でも「職人」と「芸術家」の階層分化が進み、いけばな人も、自分の社会的な立場が気になりはじめた。ようやく、いけばなの世界に、パラダイムの変換、「芸術」というものが持つステータスが見えてきた。
池坊から出た小原雲心、安達潮花らが、立華・生花から離れて、なげいれの伝統の上に新しく「盛花」を起こしたのは、こんな時代の出来事なのである。雲心の盛花は当時の文学界における正岡子規の「写生」や、自然主義の動向ともつながりを持っていて、いけばなの表現として「写景」ということを言った。(注7)彼のいけばなに自然主義の影響がどの程度あったか、今となってはわからないが、ただその盛花の始まりが、盆栽・盆石と共通の基盤を持ち、花鳥風月的な、文人趣味の脈絡上にあったことは疑う余地がない。しかし、いったん盛花の運動が起きると、その新様式が洋花の使用を可能にするとともに、新しい生活空間にも浸透し、それが文人趣味の破綻や古い形式の解体を促すなど、いけばな界は急速に流動化していったのである。(注8)
さらに、その後に登場した山根翠堂や勅使河原蒼風の「自由花」は、明治期の支配文化や、それを映す庶民文化とは明らかに異なっている。彼らは、新時代の雰囲気の醸成によって熟していったモダニズムと、古い文化の確執・相互浸透する都市の中で育った新しい世代だった。街には工業製品や近代ビルディング、アール・ヌーヴォーからアール・デコ、バウハウス的機能主義に至る工芸品、映画、文学・芸術運動が、マス・メディアによる未曾有の情報とともに氾濫した。いわば、確立された「日本人」が、初めてヨーロッパ世界と同時性において世界史を体験したのである。その山根翠堂、勅使河原蒼風などに至って再びいけばなの意味は考えられるようになった。
道徳や能書き以外の新しいいけばなの意味を考えた、彼らの主張の新しさの背後には、「芸術」という新しい権威と、それとは一見相反するように見えるが、草創期のいけばなの再生という側面が見出される。小原光雲(雲心の子)、安達潮花のいけばなは、それから見れば西洋飾花(フラワーアレンジメント)的であり、「芸術性」に欠け、職人的であると彼らには見えていた。

枝を切り取られて居るのも、根元から切り離されて居るのも、共に壊された自然であります。凡ての切花が既に破壊された自然でそれを復活さす為に、愛によって洗練されたる技巧が必要となります。洗練されたる技巧と、高められたる人格と、深められたる思想によって、気絶して居る切花たちが(新しい生命を得て)甦って行くのであります。(注9)(山根翠堂『自然と作品』大正12年10月)

なんといっても、花は自然の立派な一つの完成品です。花の美しさは、一つの約束を持った既成の美しさです。この花をどんな取扱ひをしてもよい、どう挿しても美しいなどと考えることは正しくありません。花は折られると同時に、根から離れ、大きな、正しい自然の統一を失ひます。……この、一度自然から離れて死んだ花の美しさを、再び生かすだけでなく、自然にあった時より、もっともっと自分と親しみのある美しさに置かうとするところから出発をし、研究したのが、日本の『いけばな』の精神なのです(注10)(勅使河原蒼風『新しい生花の上達法』昭和8年)

『専応口伝』が書かれた十六世紀と、山根翠堂、勅使河原蒼風とのあいだには、四百年の時間の隔たりがあるが、彼らのいけたいけばなばかりではなく、これらのいけばな観にも共通性が認められる。さらに、自然の内に統一されている草木や花の美しさと、そこから切り離されたいけばなの美しさとのあいだに、明確な区別を置いている。いけばなは、草木や器にいけばな作家の手が加わってできた新しい秩序である、という見解の強調には、荻生徂徠などとも通じる自然と人為の区別の他に、フェノロサの『美術真説』の影響も認められなくはない。が、それが一度破られた自然のまとまりを、自然に範を取って回復させる、生かす試みでもあると言っているように聞こえるのは、フェノロサがよって立つイデア論とは実は違っている。何よりも、自然がそれ自体の秩序を持つ肯定的な存在であり、イデアによって加工されるべき材料とは見なされていない。むしろ、人為は自然に範を求めるべきだとするしっかりとした前提が見られる。
二人の相違点があるとすれば、翠堂が「自然」の範にやや傾き、蒼風が「人為」に傾いている感じがしないでもないが、翠堂の方が年長で、より古い世代を代表しているとは言えない。翠堂はこの文章で、当時流行の「人間主義」に傾斜した発言をして、結果的に「芸術」派を演じている。勅使河原蒼風は、もっと慎重に言葉を選んで、江戸期以来の「文人」にも「芸術派」にも配慮している。蒼風の方がむしろ、古い文人派としてのスタイルを踏襲していると言ってもいい。蒼風の射程の方がより遠くを睨んでいるとも考えられる。後に二人を分かつ兆しはこの文章にもすでに表れている。
山根翠堂、勅使河原蒼風のような、近代を代表するいけばな作家の自由花のほとんどが、出発当初、花材や花器の自由さ、新しさを除けば、〈しん〉と〈下草〉という単純な対比構成と、三点構図というパターンの見直しとその再生だった。『花王以来の花伝書』に示される図から、桃山期の茶花・立華、十八世紀の生花も、いけばなの転換期にはいつも、受け継がれてきた祝祭的なものが、新しく見直され再生されるという、過去何回かあった同じ出来事がここでも起きている。硬直した制度を離れ、新しいものを生み出すには、草創期の流動に戻ることが有効なのである。山根翠堂や勅使河原蒼風にも、いけばなが自然を根に持ち、自然がいけばなに力を与えるということに関する確信があった。いけばなをいけるという行為の中には、生命力としての自然を祭る祝祭の余韻と座敷飾りの伝統が残っている。勅使河原蒼風のいけばなの新しさには、こうしたいけばなの歴史に根ざす自然観と感受性が踏まえられているということを見逃してはならないだろう。

4 山根翠堂と自由花

西洋近代芸術との比較でいけばなを考えた、最初のいけばな作家は山根翠堂だろう。大正十一年、彼は『花を愛する者の魂の記録』で、今後のいけばなの歩むべき方向として「自由花」をかかげた。そして、江戸末から明治・大正期の古い形式のいけばなに対しては「技巧を誇るがために花をいける」死に花であり「それが形式的に整って居れば、それだけよけいに死を思ひ醜を考へさせられる」と非難する一方で、「世間では盛と云ふ字や投入と云ふ言葉にとらはれて、平面的な奥行きのない、余韻と云ふことなど考へたことすらありません、と云ふ様な趣味の低級な花を挿す人が沢山にあります」などと、新しいいけばな(小原光雲、安達潮花らのいけばなを指していると思われる)をも批判の対象にしている。(注11)

現代の生花は、自然の人格化だ、理想化だ。荒けづりの自然ではなくて、作者の人格によって磨きあげられた自然だ。……芸術的な生花とは、作者の魂の中に融け込んだ自然が、作者の魂を打ち込んだ自然となって再現したものだ。……花を生けると云ふことは、真と善とを内容とした美しきものを愛することだ。さうして愛するとは一つになることだ。花と作者が一つになって生きて居る姿が現代の生花だ。(『生花の芸術』)

翠堂は、当時トルストイに影響を受けた「人生―芸術」的な芸術観を信奉していたといわれるが、彼のいけばなには、おのれと自然の一体感、自然と交感し融合するような自然観があったことが見てとれる。一瞬の草木の表情やおもむき、味わい、それは一つの文化の脈絡の内で像を結ぶ。いけばな作家山根翠堂は、彼が持つ情趣によって、大きな織物の内に織り込まれているのである。実作上でも、初めの頃は、「意匠花」と呼ばれた「床飾り」的な文人趣味の投入をいけることが多かったようだ。だから、山根翠堂の提唱した芸術としてのいけばな「自由花」には、「自我の確立とその表現」といった西洋近代の人間中心的な芸術観とはもともと異なる自然観、人間観があって、それが後には昭和のモダニズム的ないけばなから、彼をへだてる原因となったわけで、彼のいけばなには、江戸期を越えて桃山期にさかのぼる復古というイメージさえある。
翠堂は、たまたまトルストイ―白樺派的な芸術観に彼のいけばなの理想を見、西洋近代芸術と彼のいけばなのあいだにあるかも知れない矛盾には気づかなかった。この事情は、当時成立した「日本人」の、西洋近代に対する思いを考えればわかる。多くの人々と同様、翠堂にとっても、いけばなは「近代化」されるべきものと考えられていたし、そのモデルを西洋近代芸術に求めたことも、当時の一般的な考え方に過ぎない。
しかし、わたしは、山根翠堂のいけばながその時代に新しくなかったとは思わない。むしろそれは、それまでのいけばなと一線を画して、いけばなの世界に近代をもたらした。彼のいけばなの新しさは、彼がいつも、西洋近代の芸術を物差として、江戸末期・明治期のいけばなから新しいいけばな潮流とも対決せねばならなかった、その意識にこそある。それまで自明のものであり、空気のように享受されてきた伝統的ないけばな観は、山根翠堂に至って自己点検の場を持った。翠堂の作品に宿る独特の緊張と不安は、「芸術」に向けていけばなを確立して行こうとする作家の姿勢がもたらすものであろう。
翠堂は、硬直化・惰性化して技巧だけに頼る、「死んだいけばな」を非難したが、他方では芸術の名においていけばなのあり方を擁護できると考えた。しかし、そのことで逆に、西洋近代の「人間主義」によって、いけばなはその土台から批判され、変革を迫られることになった。なぜならそれは、いけばなをめぐる文化の脈絡を、西洋近代をモデルにした文脈に移し替え、いけばなに「歴史主義」と「自我中心主義」を導く露払いになったからである。当時のいけばな界は、立華・生花という格花と、「中国」風文人趣味の投入=「文人花」が並立し、その中で新しいいけばなが模索される状況だった。明治以降、文学や絵画、その他あらゆる分野に西洋の文物が移入され、花材にも洋花がどんどん入って、文化的秩序に大きな転換が迫られた。その動きの一つとして、新しいいけばなの運動はあったのである。
山根翠堂は、こうしたいけばなの動向の中で「自由花」を提唱して、新しいいけばなの様式とその理念を確立しようとした。翠堂の『自由花偶感』の主張を、今私は直接読むことができないが、山根有三が以下に解説している。

翠堂は、「花」と「人」の関係を、「花それ自身の本質的生命」と「作者の真の個性」の合致として問うている。そして、花には花それ自身が持って生まれた個性(先天的な個性)と、環境が作った個性(後天的な個性)とがあり、さらにその中を流れる本願(正しく生きんとする願い)があるとする。それを見抜くのは人であるが、作者の個性の表現は「花それ自身の本質的生命を冒涜」しない事が前提となる。すなわち、おのれ(人および花それ自身)の本願(正しい願いほんとうの心)に従うことが自由花であるという。(注12)(『自由花偶感』、山根翠堂、『国風』、大正12年9月号)

山根翠堂の「自然の生命」や「心」の主張には、かなり宗教的な態度が認められるが、その根底にある神は、どちらかというと「自然」という抽象化された一神教的な神であり、八百万のアニミズムよりも、イデア論に近い。そこに彼の近代性を認めることができる。翠堂は、いけばなの定形化を嫌い、花材に無理な細工をすることも認めなかった。彼の自然のイデアは、すでに自然の中に宿っているものなのである。彼の「自由花」は、作品空間や枝の配置に工夫を凝らすことに特徴がある。大部分は、枝ものか草花の一種いけ・二種いけで、それは、いけばな成立期の、〈しん〉と〈下草〉による構成法、投入のもっとも古典的な手法そのものである。翠堂はいけばなの形式を、その発生の場に帰すことで、表現の流動性を取り戻し、「死んだ」いけばなに、新しい生命を与えようと試みたが、彼の祭る「自然」にはすでに、西洋的な精神が絡んでいる。

古来の立花、天地人系生花に含まれてゐる日本的造形感覚と抛入花様式に見られた深い自然観と、明治以後昭和に獲得された浪漫的精神との合致の上に建設されねばならない。(『花道日本』教育研究会 昭和18年)

翠堂の「自由花」運動の真の共鳴者は、勅使河原蒼風ではなかっただろうか。昭和初期から敗戦に至るまでの、蒼風の作品やいけばなに対する考え方が、同時代の山根翠堂とよく似た地点から出発したことは確かだろう。その頃の二人のいけばなには類似性があるし、言っていることも似ている。たしかに蒼風は、いけばなを、近代芸術的な観点で再認識しようとする志向に対して、翠堂よりも理解を示し、みずからのいけばなに対しても、より造形的な表現、主観主義的な表現を確立しようとしていたように言われる。しかし、戦前の作品写真を見るかぎり、蒼風の作品の主流が、枝ものと草花による簡潔な投入自由花であり、当時最新のモダニストであった中山文甫などとは、まったく異質ないけばな観を持ついけばな作家であることは明白である。当時の勅使河原蒼風は、自由花の山根翠堂よりも文人派とさえ見られていたのだ。
勅使河原純著の『花のピカソと呼ばれ』にはこうある。

蒼風の若いころの花を知るには、はじめての写真集『生け花かがみ』、『華道三十六家選』(昭和九年)、『いけばな読本』(昭和一二年)などをのぞいてみるのが早道である。それらによると、当時、水盤を使ったコスモスやカキツバタ(燕子花)の一種生けがさかんに試みられていたことがうかがわれる。水をはった広口の水盤あるいは平鉢に、コスモスならコスモスだけを背丈の長短をつけながら生けていくのである……。いけばな研究家の工藤昌伸は「コスモスの一種いけ」を自由花または文人瓶花風であって、けっして革新的傾向をあらわしているものではないという。第三代小原流家元の小原豊雲も、世の中からバリバリのモダニストとみられていた蒼風を、その作品に即してよくよく眺めてみれば、けっして「新しがり屋」ではないという。むしろ「わび」や「さび」の抜けきらない文人趣味を、まだそこここに残しているところがある。(注13)

「自由花」を提唱した山根翠堂は、その出発点でその時代の立華・生花を自然とのつながりを持たない技巧の見せ場だと批判した。しかし、ひるがえって自分達のめざすいけばなの説明は不十分で、自由、自然という以上のはっきりした考えを示せなかった。
先にも言ったように、「自由花」の「格花」批判は、それまでいけばな史に何度もあったくり返しの再演である。自由な「なげいれ」から規範を整えた「たて花」に発展したいけばなの歴史で、規範化された「立花」に対して現われた「立華」が、いけばなの世界に逆に制度として取り込まれ、その「立華」を批判した「茶花・なげいれ」が「生花」としてまた「格」という規範を取り込み、「格花」を批判した「文人花」「盛瓶花」「自由花」もいつかはいけばなの様式の一つとしていけばな界の秩序を支える。それは自由と秩序をめぐって一見対立しながら、いつまでもいけばなという枠組を巡って循環するのである。

5 重森三玲と『新興いけばな宣言』

この時代の雰囲気を知るために、山根翠堂と重森三玲の対立と、昭和五年頃、重森三玲も関わって執筆されたといわれる『新興いけばな宣言』について触れておこう。重森三玲はいけばな作家ではないが、いけばなに対して近代芸術の立場から積極的な評論活動をした人で、当時自由花運動の支持者として知られていた。
『新興いけばな宣言』は、いけばなの現状を「極楽の島の上に惨めに取り残された運命的な敗残者」と言い切り、「いけばなに新しきメ生きつつある芸術ヤとしての生命を吹き込むために、いけばな奪還の十字軍を組織する」などとあった。(注14)
『新興いけばな』は、次の五点に要約されている。

一、懐古的感情を斥ける
二、形式的固定を斥ける
三、道義的観念・植物的制限を斥ける(植物は最も重要なる素材であるのみである)
四、花器を自由に駆使する(花器によって制限を受けない)
五、あくまで発展的であって、一定の形式を持たない(新しき精神は全く新しい相貌を持って表われるであろう)

もちろん、こんな言い方ははじめから見当外れである。いけばなを「芸術」という範疇で考えた人に問われるのは、この「宣言」以前に、いけばなの世界に、西洋近代芸術と比較できるような、表現すべき「自己」と呼ばれるものがあったかどうかである。初めから異なる文脈上の出来事を比較しながら、「遅れている」と嘆いて見せても、言われた方は何のことかわからないのが当然だろう。重森三玲は西洋的な芸術分野の中にいけばなを分類することをためらわない。彼によれば、「いけばな」も「芸術」も、世界の同じ枠組の中に疑いなく存在し、それらは西洋的な「自我」の成立と発展の歴史によって、統一的に説明できるのである。彼は小原雲心以後の盛花・投入を、いけばなの「自然主義」とし、いけばなの「超自然主義」を「新興いけばな」によって導こうとした。

明治末年から、大正へかけてのいけばなは、自然の姿を忠実に表現することに努力されたのであった。それはいけばなに於ける自然主義や写実主義の台頭として興味あるものであり、当時としては、一種の革命であり、画時代的な問題として取り挙げられたのであった。(中略)外にある自然と、芸術として表現された自然とは、全く別な世界である筈であるから、同じ自然ではあっても、その差の大きいほど、芸術として、投入花や盛花の価値を高く評価することができるのである。(注15)(『新しい投入と盛花』)

ところで、いけばなは西洋近代芸術によって存在証明できるものだろうか。考えてみればいけばなは、古い花飾りの様式で、その脈絡には「書画」、「座敷飾り」、「床の間」、「書院・数寄屋」、「庭園」、「茶の湯」、「盆栽・盆石」、「漢文学」、「短歌・俳句・物語」、「仏教」、「儒教」、「神道」その他、縦糸横糸の編み目が連なっていて、そのつながりの中でいけばなは意味づけられている。当然のことだが、それらは西洋近代芸術の脈絡とは別のものである。
この宣言を翠堂は知らなかったというが、こうした考えは同じ頃、三玲によって、「自由花の定型化、マンネリズム」としても指摘されていた。

「草木を切り取って見ても、血も涙も出ない」「どんなに曲げようと、折らうと勝手」で、「草木が可愛そう」と考える人は「頭から挿花をやらぬ方がよい」(注16)(『ネオ・ダダイズム・フラワーアレンジメント』)

この批判が、主要に当時自由花の代表的作家として評価されていた、山根翠堂に向けられたものであることは明らかだった。翠堂にとってこれはうべなえないもので、反論もまた気負い立ったものになっている。

神の力を否定し、一個の人間として自然に真っ向ふから反抗し、それを完全に征服し駆使することによって自己の力の偉大さを表示しやうとして居る。かかる唯物主義の上に立つ反自然主義が、今や全日本の花道界を流行性感冒のやうな恐ろしい伝播力をもって風靡せんとしつゝあるのだ。(『全日本の花道界を席巻しつつある反自然主義とその対策に就いて』)

新味が乏しいとか、マンネリズムだとか云った言葉で簡単にかたづけて、その作品のもつよさに眼を閉ぢて行く批評は正しい批評ではない。いさゝかマンネリズムに近いために善いものが悪くなったり、新味があるとか変わってゐるとかだけで悪いものまで善くなるといふことは断じてない。新奇なものばかりに食ひついて行く軽薄な批評家から、マンネリズム呼ばわりされだした頃に真によい作品が産れるのだ。(『生花の芸術』)

山根翠堂にとっていけばなの善し悪しは歴史的な問題ではない。ましていけばなを西洋アヴァンギャルドの影響下に置く必要もなければ、西洋近代芸術史に組み込む必要もない。彼が求めたのは、ただいけばなに再生をもたらし、価値づけるための新しい理念としての「芸術」だった。彼は彼の内から自然と響き合うものによって表現を考えている。彼が「よい作品」というとき、その言葉には実作者の経験の裏打ちがある。
山根翠堂のいけばな観が、伝統の編み目の内に育まれていることを知るのは、たいへん大事なことのように思う。この時代から今日に至るまで、西洋近代と日本近代が負っているものを同時に対象化する視点を、知識人はなかなか持つことができないできた。達成すべきモデルとして西洋近代という物差を使い、それに向かう過程という図式で、「日本」の近代を考えてきたのである。しかし、西洋の文化が人類文化の普遍的モデルであるはずもないし、文化はさまざまな場所で独自の歴史と論理を持って展開されてきている。だから、翠堂が考えた「いけばな」に対しても、翠堂ばかりではなく、もう少しその脈絡にそって考えていく視点を持つべきだったと思われる。

6 山根翠堂のいけばなの近代性

山根翠堂は西洋近代の芸術思想を援用しながら、御用的な格花の潮流に対して戦いを挑んだが、一方で小原雲心・光雲の盛花も批判の対象にした。彼のいけばなと小原雲心・光雲の盛花とのあいだには、どんな違いがあったのだろうか。
小原雲心・光雲の盛花が、江戸期の文人瓶花の伝統や、盆石につながる趣味から発していることは前に言った。しかし、文人趣味の「風致いけ」が、盆景から洋風の飾花的な表現に発展していったとき、いけばなが持っていた精神性の何かが失われた、と山根翠堂は考えたのである。小原流の盛花は、当時の自然主義の文学運動、とりわけ正岡子規の「写生」と結びつけられる傾向があったようだ。しかし、すでに自然の一部である草木を、象徴的な場から奪い去れば、いけばなの作品化自体が危うくなる。いけばなの「写実主義」は、当時のいけばなの表現形式にとって自己矛盾でしかない。雲心や光雲の新様式は、いけばなの意味を変える問題をはらんでいた。
文学における写実主義「風景の発見」が、それまでの「日本人」の、認識の布置そのものを変えてしまったという指摘がある。(注17)
柄谷行人によれば、「風景」とは「孤独で内面的な自我」によって見出された「外界」にほかならない。近代自我意識の成立が、少しずついけばなの主題を個人的なものに変えていき、いけばな作家の作家意識も芽生えてくるのは、自然が人々にとって共感の場から、「風景」という「外界」に変わっていったことを示している。ただ、いけばなでは、象徴的な草木観がいけばなの構造を支えていたことから、近代的な「自意識」の表現である「近代芸術」とのくい違いを、そのまま抱えこまざるをえなかった。
山根翠堂にとっていけばなは、〈しん〉と〈下草〉による構成そのものであり、草木の象徴性は当然の前提である。しかし、その一方、彼は作家の個性にも言及せずにはいない。そしてそれを、「花それ自身の本質的生命との合致」と言っている。彼が「個性」を主張するのは、たんに「芸術論」に引っぱられたからではないだろう。翠堂のいけたいけばなは、作家自身がめざす彼岸を示そうとする試みである。それこそ、山根翠堂の自我意識と、作品の近代性を如実に示している。翠堂は、「自己意識」によって対象化された自然=風景を見出し、いけばなに自己の「内面」の救済という「主題」を担わせようとする。彼にとっていけばなは、「自然」つまり「風景」を見出すための手段ともなったのである。翠堂が「文人花」や「格花」の手法をいち早く拭い去って、洗練された簡潔な投入自由花を確立できたのも、彼の強い自意識にとって、なげいれの形式が本来持っていた自由さが、ぴったり呼応した結果である。自由であることは彼のいけばなのだいじな条件であり、彼の自由花が練習花として、たった一つの花型しか生み出さなかった理由でもある。
ところが、もともとなげいれが持っていた自由は、祝祭的な「自然」との共鳴によってもたらされたものであり、作家の個性による自由ではない。翠堂はそのことに気づいていただろうか。彼が「『花それ自身の本質的生命』との合致、おのれの本願に従うことが自由花だ」と言っているのは彼なりのその表明であろう。しかし、こうした合致を言うことがすでに、自然と自己の対立と、「伝統的」な「自然」に休らうことの困難を明らかにする。もちろん、日本近代が形成した個人には、西洋近代に見られるものとは異なる自然観がひそみ、山根翠堂はいけばなの場でそれを体現していた。西洋人にとって「自然」が無秩序の表徴なら、フロイトが発見した無意識=内側の自然は混沌をもたらす。しかしここでは、自然と意識の分離が顕わになるほど、囲い込まれた自然の虚構は、自己=内側の自然と同一化し、作品は自然=イデアの表徴となる。彼にとっては、囲い込まれた「自然」こそが神なのだ。
山根翠堂がなぜ重森三玲との論争で激越にならざるを得なかったか。また、第二次大戦後の、伝統流派まで巻き込んだ、いけばなの前衛運動の流行の中で、自己の立場を動かさず、いけばな界で孤立して行ったのか。彼は自然との新しい出合いに当惑し、ロマン派や白樺派が目指した調和的な自然の内に留まった。そして、自分の世界を閉じることで、彼のいけばなに調和を取り戻した。彼のいけばなは研ぎ澄まされ美しいが、自然との新しい関係を結ぶ可能性は絶たれたのである。
翠堂のいけばなが、画学生出のふつうの啓蒙派インテリである、重森三玲などのような人達にとって、「新味が乏しい」、「自由花の定型化」、「マンネリズム」といった評価を受けるのは当たり前なのだ。彼らにとって芸術は、近代自我の確立と、その発展を世界史的な同時性の中で表現する場であって、それには絶えざる「自己変革」と、個々人の「創造性」が求められる。一方山根翠堂の自由花では、作家の個性は「花それ自身の生命との合致」へと向かい、創造性の替わりに「自然の新しい甦り」「人および花の本願」が置かれる。重森三玲などには、それは自我の未成熟としか映らなかっただろう。
山根翠堂のいけばなと近代以前のいけばなを分かつ大きな違いは、彼のいけばなには、「自我」という固定した「視点」があり、それに導かれて作家と鑑賞者が作品を体験するという、近代絵画の遠近法にも似た明晰な構成法にこそ示される。翠堂がいけばな写真をつねに意識し、それを有効に使い、作品写真による批評、鑑賞という方法を始めた最初のいけばな作家だったことは偶然ではない。むしろ、彼の新しい自由花作品は、いけばな写真を写すことを通じて成立した。ファインダーの固定した視点が、いけばなの世界に、自我と自然の分離を意識させ、ひいてはそれまでのいけばなの、草花から常緑樹へと向かう、時空的、層的構造から、自我と自然との対立と融合という、劇的構成法への転換を促したのである。山根翠堂をふくむその時代の新しいいけばな作家達にとって、格花が窮屈なものに思われ、いけばなのパターンである「花型」が否定的に捉えられたのも、この時代のいけばなの構造的な変化がもたらしたものであって、たんに江戸時代のいけばなの硬直性に対する批判ではない。それまで知っていた唯一の祝祭的な自然の雛形であった、立華・生花を支えた象徴的な世界が、彼らにとっては急速に遠いものになっていった。それと同様に文人なげいれは南画・俳画的な趣向を離れて、新しい投入・盛花様式にとって替わられたのである。
近代いけばなの基本的様式である「投入・盛花」は、古典的な「格花や文人花」に比べると、現代人にはずっと身近に感じられる。それは、いけばなを、細かい禁忌や制約から解放して、人々の草木に対する感動を、すなおに表現できるようにしたと思われた。だがそれは、現代人がもう、古典的ないけばなの構造に、説得力を感じない世界に生きているからにほかならない。どんな時代でも、人々は、ある文化の枠組の中で、一定の約束を通して自由に振る舞うことができる。「自由花」もその意味では、約束を離れてただ自由ないけばなでないことは当然だった。当時の理論家には、いけばなの類型化の原因を、格花の「花型法」に求める主張があったが、その主張の前に、彼ら自身の思考方法の類型性をこそ反省すべきなのだ。
いけばなの花型の否定が、たんにテキストを奪い去って、いけばなの世界を貧しくするだけなことを、山根翠堂や勅使河原蒼風のような実作者はじゅうぶん承知していたから、自由花は逆に、生花の花型を吸収した。それは、〈しん〉と〈下草〉の対比構成と三点構図によってできているが、その時花型は、決まった型ではなく多用な変奏を生む練習のための新しいテキストと考えられたのである。

注及び参考文献

1-第一章3 不定形の形態 30ページ、第一章(注)十一
2-以下、花伝書などの古典資料の引用は、『花道全集』河原書店刊による。
3-『いけばな』『別冊太陽』13号、平凡社、一九七五年。同書にはこの頃のいけばな絵図が多数収録され、再現写真もある。
4-中西進『古代人の自然観』『日本人の自然観』河出書房新社所収、一九九五年
5-工藤昌伸『いけばなの道』主婦の友社
6-二代池坊専好のいけばな絵図は数多く、いけばなのさまざまな解説書に紹介されている。技法解説では陽明文庫『池坊専好立花図』を取り上げた、岡田幸三編『専好・華の作風』講談社、立一九八七年刊が詳しい。
7-重森三玲『新しい投入と盛花』、晃文社などによる
8-北条明直『いけ花とは何か』、角川新書など
9-山根翠堂『自然と作品』大正12年、『山根翠堂』山根有三編、真生流本部発行
10-勅使河原蒼風『新しい生花の上達法』主婦の友社、一九三三年
11-以下、山根翠堂に関する資料は『山根翠堂』山根有三編、真生流本部発行による
12-山根翠堂『自由花偶感』『国風』(大正12年9月号)、山根有三『翠堂の人と作品』真生流本部発行、より孫引き
13-勅使河原純『花のピカソと呼ばれ』、フィルムアート社、一九九九年
14-『新興いけばな宣言』の資料は『いけばな芸術』第十六号による。この文章の執筆者は重森弘淹によれば、藤井好文であるらしいが、『宣言』のメンバーの中で、重森三玲が突出していたというのが実状のようだ。その辺の事情は『人物・昭和のいけばな史』『いけばな批評』21号、王立出版社、一九七五年
15-重森三玲『新しい投入と盛花』晃文社
16-『自由花は何処へ行く』『山根翠堂の人と作品』真生流本部発行、より孫引き
17-柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、一九八〇年

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