Contents_ |(2)陶磁器の世界に入ったいきさつ| |(3)作品のこと、これからの目標| |グリーンツーリズムについて|(98.3月) 修了者の便り 近況報告(03年3月) |
紬裏五彩(ゆうりごさい)と絵付け2
《風のグラフィティ・陶芸家、広瀬さちよさんに聞く》より 聞き手・村松文代(IBC岩手放送ラジオ、1986年) 最初、洋服になったものを見たときには、やはり嬉しかったですね。大きな花がパッパッと散って、「洋服にするといやに花が大きいな」とか思ったり、要するに生地で考えてたときとは違ってるんです。完成されたんだなど思いました。 紙の表面のような、自由だけどとっかかりのないものよりも、とっかかりのあるものの方がいいんです。何かがあるとそこから始まります。 わたしはもともと絵を描きたかったのですが、その土台が必要で、形を作ることを始めたんです。でも、あるときから、ただ形を作るだけじゃなくて同時に絵付けがしたくなって、それで京都にまいりました、手描きの仕事が瀬戸には少ないんですね。どちらかというと量産の土地ですから。 そうするとあきられて、いつか片隅に押しやられてしまうんじゃないでしょうか。 片身変わりなどの空間処理と、彫りを組み合わせたら、何か表現できるような気がします。 でも不思議ですね、わたしが興味を持ってから、その後で日本の絵画とかアール・ヌーボ一とか、ジャポニズムというようなことがよく取り上げられていることに気づきました。 (京都府立陶工高等技術専門校;『陶工だより』第10号より 広瀬さちよ
2. 陶磁器の世界に入ったいきさつ
自分でこんな絵を描きたいと思ったってだめで、よくよくその形を見てるいると、ここにはこんなふうにというように、形から絵が引っぱり出されるんです。
わたしにとって絵はその器を感じるためのものです。白磁を見ていても入っていけないんですね、白い画面を見ても何も感じられないのと同じで
、たとえば、引っかき傷があると、そこで何か思うことが生まれる、それを理解するための導きですね。一般的に言っても、染付の器が身近に感じられるのは、その辺じやないかと思います。そんなところから、器がその人の一部になっていくような気がします。
いつでも使って、いつでも眺めていると、ほんとうに大事なものになっていくと思うんです。
広瀬
村松
広瀬
村松
広瀬
まあ、形もそのときどきでどんどん変わっていくと思いますし、わたし達にも、先はどうなるか解らないところでやっていますが…。
村松
広瀬
わたしは、ぜんぜんそれを知らなかったんですが、もしかしたら、時流に乗ってるいると言われそうですね。
金・銀を使い始めたら、それも今はやっているらしい。いやに似てるいるなど思います。わたし自身は情報に疎いし、かかわりないと思っていましたけれど。もしかしたら、そういうものを感じてやってるのかもしれませんね。
だからといって、そういうのにずっと乗っていこうという気はありません。マイペースでやっていきたい、公募展も、自分のやりたいことをやって、それで発表できればいいと思いますし、受入れられなければ、それはそれで仕方がないと思います。
村松
グリーンツーリズムについて
(岩手県広報誌「愛ランドいわて」1998.3月号コラム「ほんだ ほんだイワテ」より)
広瀬さちよ(Sachiyo Hirose)
修了者の便り 近況報告(03年3月)
私は、二十五年前の図案科の修了生です。
当時は若々しかった佐々木昭一先生も、もう定年を迎えられるのですね。
現在、私は名古屋近郊で、夫が形を作り、私が絵付けをしながら、各地で年数回の展示会をして暮らしています。
最近は、焼き物の売れ行きもたいへん悪くなっていて、これから先はどうなっていくのか、視界不良です。昨年も、展示会の回数を増やして、つじつまを合わせるという状態でした。都市部での景気の冷え込みは特にひどいものです。
「もう、ものはいらない。すでに持っている、自分で作って楽しみたい。釉薬や手法を教えてほしい。」展示会場でも、こんな声がよく聞かれます。作り手としては、ものが売れないのは困ったことですが、そう考える人が増えている事は、成熟した、豊かな社会だからこそでしょうか。
そういえば、私も、ずいぶん前に、自分で作ってみたいと思い、陶工訓練校に入学しました。訓練校時代は短く、あっという間です。終了製作には、中国成化時代の「豆彩
」を真似て、花蝶図の紅茶碗皿を作りました。
最近、故宮博物院に行き、チキンカップや花蝶図の小壷など、「豆彩」と呼ばれる作品群をあらためて見ました。いつ見ても気品があり美しいものです。じつは、故宮博物院には二十年ぐらい前、独立して間もないころにも行き、元・明の染付・上絵磁器の迫力に圧倒されたのです。その後しばらくは、元・明染付に、自分なりのアレンジを加えたものが、私の仕事の中心になっていたと思います。しかし、少しずつ、琳派や能装束、染め・織りなど、日本の意匠を意識した仕事に変わって行き、「豆彩」からも遠く離れていたのでした。
先日の故宮で、忘れていたものを再発見しました。
「豆彩」を再び見直したように、今の地点から、今までの自分の仕事を振り返り、仕切りなおしをしてみるというのも、悪くないことかも知れません。そろそろ、意気込みに任せての仕事が、出来ない年齢になったと感じることが多いのです
それにしても、二十五年間、焼き物作りの仕事を続けて来られたことは、かけがえのない幸運でした。みなさんも、長い道のりになると思いますが、継続の力を信じて、仕事を続けていっていただきたいと願っています。
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