いけばなと芸術(山根翠堂)


いけばなと芸術(広瀬典丈)
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(1988年3月〜1990年1月Parantra掲載)
Contents_(1)山根翠堂と自由花運動 (2)重森三玲と『新興いけばな宣言』
(3)いけばなと自然 (4)いけばなの形
(5)いけばなの近代 (6)勅使河原蒼風の自由花 (7)勅使河原蒼風と戦後いけばな
(8)『現代いけばな』と新たな動向 (9)いけばなという制度
(10)いけばなと「国際文化(11)いけばなと出来事

(一)山根翠堂と自由花運動

西欧近代芸術との比較でいけばなを考えた最初のいけばな作者は山根翠堂だろう。 大正十一年、彼は『花を愛する者の魂の記録』(注1)で、今後のいけばなの歩むべき方向として『自由花』をかかげている。
そして、江戸末から明治・大正期の古い形式のいけばなに対しては「技巧を誇るがために花をいける」死に花であり「それが形式的に整って居れば、それだけよけいに死を思ひ醜を考へさせられる」と非難する一方で「世間では盛と云ふ字や投入と云ふ言葉にとらはれて、平面的な奥行きのない、余韻と云ふことなど考へたことすらありません、と云ふ様な趣味の低級な花を挿す人が沢山にあります」などと、新しいいけばなをも批判の対象にしている。(以下、山根翠堂に関する資料は『山根翠堂』山根有三編、真生流本部発行による)

「芸術的な生花とは、作者の魂の中に融け込んだ自然が、作者の魂を打ち込んだ自然となって再現したものだ」(『生花の芸術』(注2)「花を生けると云ふことは、真と善とを内容とした美しきものを愛することだ。さうして愛するとは一つになることだ。花と作者が一つになって生きて居る姿が現代の生花だ」(『生花の芸術』

翠堂は、当時トルストイに影響を受けた『人生−芸術』的な芸術観を信奉していたといわれるが、彼のいけばなには、おのれと自然の一体感、自然と交感し融合するような自然観があったことが見てとれる。一瞬の草木の表情やおもむき味わい、それは一つの文化の脈絡の内で像を結ぶ。いけばな作者山根翠堂は彼が持つ情趣によって日本の文化という大きな織物の内に織り込まれているのである。
だから、山根翠堂の提唱した芸術としてのいけばな『自由花』には「自我の確立とその表現」といった西欧近代の人間中心的な芸術観とはもともと異なる自然観、人間観があって、それが後には昭和のモダニズム的ないけばなから彼をへだてる原因となったわけで、彼のいけばなには江戸期を越えて桃山期にさかのぼる復古というイメージさえある。
翠堂は、たまたまトルストイ−白樺派的な芸術観に彼のいけばなの理想を見、西欧近代芸術と彼のいけばなのあいだにあるかも知れない矛盾には気づかなかった。この事情は当時の日本人の西欧近代に対する思いを考えれば分かる。
多くの人々と同様、翠堂にとってもいけばなは『近代化』されるべきものと考えられていたし、そのモデルを西欧近代芸術に求めたことも当時の一般的な考え方に過ぎない。
しかし、わたしは山根翠堂のいけばながその時代に新しくなかったとは思わない。むしろそれは、それまでのいけばなと一線を画していけばなの世界に近代をもたらした。彼のいけばなの新しさは、彼がいつも西欧近代の芸術を物差として江戸末期・明治期のいけばなから新しいいけばな潮流とも対決せねばならなかった、その意識にこそある。
それまで自明のものであり空気のように享受されてきた伝統的ないけばな観は山根翠堂に至って自己点検の場を持った。翠堂の作品に宿る独特の緊張と不安は『芸術』に向けて『いけばな』を確立しようとする作者の姿勢がもたらすものであろう。翠堂は、硬直化惰性化して技巧だけに頼る<死んだいけばな>を非難したが、他方では芸術の名において日本のいけばなのあり方を擁護できると考えた。
しかし、そのことで逆に、西欧近代の『人間主義』によっていけばなは、その土台から批判され、変革を迫られることになった。なぜならそれは、いけばなをめぐる文化の脈絡を西欧近代をモデルにした文脈に移し替え、いけばなに『歴史主義』と『自我中心主義』を導く露払いになったからである。
当時のいけばな界は、『立華』『生花』という『格花』と中国風文人趣味の投入『文人花』が並立し、その中で新しいいけばなが模索される状況だった。明治以降、文学や絵画、その他あらゆる分野に西欧の文物が移入され、花材にも洋花がどんどん入って、日本の文化的秩序に大きな転換が迫られた。その動きの一つとして新しいいけばなの運動はあったのである。
山根翠堂以前にこうした動きに先鞭をつけたのは、池坊から出た小原雲心安達潮花らで、彼らは立華・生花から離れて、投入の伝統の上に新しく『盛花』を起こしている。
雲心の盛花は当時の文学界における正岡子規の「写生」自然主義の動向ともつながりを持っていて、いけばなの表現として「写景」ということを言った。(『新しい投入と盛花』重森三玲、晃文社などによる)(注3)
彼のいけばなに自然主義の影響がどの程度あったか、今となっては分からないが、ただその盛花の始まりが、盆栽・盆石と共通の基盤を持ち、花鳥風月的な文人趣味の脈絡上にあったことはうかがえる。しかし、いったん盛花の運動が起きると、その新様式が、洋花の使用を可能にするとともに、新しい生活空間にも浸透し、それが文人趣味の破綻や古い形式の解体をうながすなど、いけばな界は、急速に流動化していった。(歴史資料は『いけ花とは何か』北条明直、角川新書など)
山根翠堂は、こうしたいけばなの動向の中で『自由花』を提唱して、新しいいけばなの様式とその理念を確立しようとしたわけである。彼は、いけばなの定形化を嫌い、花材に無理な細工をすることも認めなかった。
彼の『自由花』は、作品空間や枝の配置に工夫を凝らすことに特徴がある。大部分は、枝ものか草花の一種いけ・二種いけで、それは、いけばな成立期の、<しん><下草>による構成法(注4)、投入のもっとも古典的な手法そのものである。翠堂はいけばなの形式を、その発生の場に帰すことで、表現の流動性を取り戻し、「死んだ」いけばなに、新しい生命を与えようと試みたのである。
翠堂の『自由花』運動の真の共鳴者は、勅使河原蒼風ではなかっただろうか。昭和初期から敗戦に至るまでの、蒼風の作品やいけばなに対する考え方は、同時代の山根翠堂と、よく似ている。
確かに蒼風は、いけばなを、近代芸術的な観点で再認識しようとする志向に対して、翠堂よりも理解を示し、みずからのいけばなに対しても、より造形的な表現、主観主義的な表現を確立しようとしていたように言われる。しかし、戦前の作品写真を見るかぎり、蒼風の作品の主流が、枝ものと草花による簡潔な投入自由花であり、当時最新のモダニストであった中山文甫などとは、まったく異質ないけばな観を持つ、いけばな作者であることは明白である。

(二)重森三玲と『新興いけばな宣言』

この時代の雰囲気を知るために、山根翠堂と重森三玲の対立と、昭和五年頃、重森三玲も関わって発表されたといわれる『新興いけばな宣言』について触れておこう。
重森三玲はいけばな作家ではないが、いけばなに対して近代芸術の立場から積極的な評論活動をした人で、当時自由花運動の支持者として知られていた。
『新興いけばな宣言』は、第一次大戦後の新芸術としてアヴァンギャルドを評価する立場からいけばなの現状を「極楽の島の上に惨めに取り残された運命的な敗残者」と言い切り、「いけばなに新しき〃生きつつある芸術〃としての生命を吹き込むために、いけばな奪還の十字軍を組織する」などとあった。(『新興いけばな宣言』の資料は『いけばな芸術』第十六号による)
もちろん、こんな言い方ははじめから見当外れである。いけばなを『芸術』という範疇で考えた人に問われるのは、この「宣言」以前にいけばなの世界に西欧近代芸術と比較できるような表現すべき「自己」と呼ばれるものがあったかどうかである。
初めから異なる文脈上の出来事を比較しながら、「遅れている」と嘆いて見せても、言われた方は何のことか分からないのが当然だろう。
重森三玲は西欧的な芸術分野の中にいけばなを分類することをためらわない。彼によれば、『いけばな』も『芸術』も世界の同じ枠組の中に疑いなく存在し、それらは西欧的な「自我』の成立と発展の歴史によって統一的に説明できるのである。彼は小原雲心以後の盛花・投入をいけばなの『自然主義』とし、いけばなの『超自然主義』を『新興いけばな』によって導こうとした。

「明治末年から、大正へかけてのいけばなは、自然の姿を忠実に表現することに努力されたのであった。それはいけばなに於ける自然主義や写実主義の台頭として興味あるものであり、当時としては、一種の革命であり、画時代的な問題として取り挙げられたのであった。(中略)外にある自然と、芸術として表現された自然とは、全く別な世界である筈であるから、同じ自然ではあっても、その差の大きいほど、芸術として、投入花や盛花の価値を高く評価することが出来るのである」(『新しい投入と盛花』晃文社)

ところで、いけばなは西欧近代芸術によって存在証明できるものだろうか。考えて見ればいけばなは日本固有の花飾りの様式で、その脈絡には『書画』『座敷飾り』『床の間』『書院・数寄屋』『庭園』『茶の湯』『盆栽・盆石』『漢文学』『短歌・俳句・物語』『仏教』『儒教』『神道』その他、あらゆる日本の文化の縦糸横糸の編み目が連なっていて、そのつながりの中でいけばなは意味づけられている。当然のことだがそれらは西欧近代芸術の脈絡とはつながりを持っていないのである。

『新興いけばな宣言』に戻ると、『新興いけばな』は、次の五点に要約されている。
  1.懐古的感情を斥ける
  2.形式的固定を斥ける
  3.道義的観念・植物的制限を斥ける(植物は最も重要なる素材であるのみである)
  4.花器を自由に駆使する(花器によって制限を受けない)
  5.あくまで発展的であって、一定の形式を持たない(新しき精神は全く新しい相貌を持って表われるであろう)

この宣言を翠堂は知らなかったというが、こうした考えは同じ頃三玲によって「自由花の定型化、マンネリズム」の指摘(『自由花は何処へ行く』)、「草木を切り取って見ても、血も涙も出ない」「どんなに曲げようと、折らうと勝手」で、「草木が可愛そう」と考える人は「頭から挿花をやらぬ方がよい」(『ネオ・ダダイズム・フラワーアレンジメント』〔『山根翠堂の人と作品』より孫引き〕)などの文で示されていた。
この批判が、主要に当時自由花の代表的作家として評価されていた山根翠堂に向けられたものであることは明らかだろう。翠堂にとってこれはうべなえないもので、反論もまた気負い立ったものになった。

「神の力を否定し、一個の人間として自然に真っ向ふから反抗し、それを完全に征服し駆使することによって自己の力の偉大さを表示しやうとして居る。かかる唯物主義の上に立つ反自然主義が、今や全日本の花道界を流行性感冒のやうな恐ろしい伝播力をもって風靡せんとしつゝあるのだ。」(『全日本の花道界を席巻しつつある反自然主義とその対策に就いて』(註4)

山根翠堂にとっていけばなの善し悪しは歴史的な問題ではない。ましていけばなを西欧アヴァンギャルドの影響下に置く必要もなければ西欧近代芸術史に組み込む必要もない。彼が求めたのは、ただいけばなに再生をもたらし価値づけるための新しい理念としての『芸術』だった。
山根翠堂のいけばな観がけっきょくは日本文化の編み目の内にあることを知るのは大事なことのように思う。だいたいこの時代から今日に至るまで、西欧文化と日本の文化をともに対象化するような視点を日本の知識人はなかなか持つことができないできた。
日本人はいつも達成すべきモデルとして西欧近代という物差を使い、それに向かう過程という図式で日本の近代を考えてきたのである。しかし、西欧の文化が人類文化の普遍的モデルであるはずもないし、文化はさまざまな民族によって、独自の歴史と論理を持っている。
だから、翠堂が考えた『いけばな』に対しても、翠堂はもちろんわたし達ももう少し日本文化の脈絡にそって考えていく視点を持つべきだったのではないだろうか。

(三)いけばなと自然

日本の詩歌、劇、物語、絵画、音楽などに現われる季節の感受の対象は、雪・月・鳥・鹿・虫などといくらでもあげられるが、とりわけ草木・花実は人の身体や心と即応する不思議な場を持っていて、内に深く浸透し人の心の形象化でもある。
もちろんそうした世界観は日本人特有のものではない。自然に生命を見、人との一体感を持つのは西欧の汎神論でも同じだ。しかしそれは、自我と自然の相互関係を軸として展開され、その統一の場としての『身体』が『自然』に織り込まれていくという構図によって人間主義的な文脈につながっていった。そこには、わたし達の生の体験のすべてを神や人間を中心にした合理的な配置で説明しようとする意志が感じられる。
いけばなに見られるのは、人と自然が多義的なまま共鳴する無我一体的な自然観である。 たしかに草木はわたし達自身とどこかで共鳴している感じがして、草木を切っても裂いても人はそれを痛みとして感じることがある。人々の心を騒がせもし落ち着かせもするもの、かなたで人をいざなうもの、草木はいつもそのような肌に触れる出来事として受け止められてきた。草木への共感なしにはいけばなは成立しなかっただろう。人は、草木の不思議な表情や快い枝ぶりに諧律を認める。草木の何かが心を打つのだ。
切った草木を回すと、日裏(ひうら)、日表(ひおもて)、枝の右振り、左振りが示される。それを日おもてを正面にして前に倒していき、今度は茂った葉や花の部分を少し残して他を取り去る。すると隠されていた枝の線が現われ、残された葉と花は前とはまるで違った密度で人の目に迫る。草木は、ある部分が省かれ他の部分が強調され、全体としては自然よりもずっと単純な形を与えられていけばなの構成に入る。
いけばなでは草木の花・実だけでなく枝や葉が重要で、たいていのいけばなが葉を持つ枝<しん>と、草花<下草>との対比で構成されている。枝も古くは常緑樹が多かった。そこに樹木−永遠性、草花−瞬間の華という対比を見るとすれば、生命と生成に関わる、祭や劇といった文化が浮き上がってくるし、枝を『古遠』、草花を『新近』とする時空的な遠近法(註5)も見ることができる。
草木は自然の一部であり感受される出来事だが、いけばなによって人間の道具立ての内に入り、文化的な役割を担う。人々は、草木に託して生の味わいを知り緑の新芽や花に生命のよみがえりを感じる。季節の節目が人の思い出のよりどころとなる。
いけばなは自然に向かって開かれていると同時に自然と人をつなぐための生活の場に置かれた窓口の役割をはたしている。日本人はそうやって、自然と文化をまぎらせ、文化を自然の一部と見なすような形に作りあげていく。
だから、文化はいつも自然に範を求め、自然もいつのまにか日本文化の枠組を支える閉ざされた制度とみがまわれる。いけばなは書画や骨董などとともに書院や床の間の座敷飾りの一部として日本の文化の中で秩序立てられ、配置されてきた。
その配置は、短歌の『野・里』と『花』、音楽の『鼓』と『笛』、絵画の『梅』と『うぐいす』、陶磁の『胎』と『釉』など、さまざまな対比構成の広がりの中で考えられ、そこには日本人の生に対する視点の取り方が浮かび上がる。それは一見二つのものの対比だが、その背後には、いちばん手前にある人間から自然の最奥までつながる時空的層的な宇宙観を見て取ることができる。 一六世紀のいけばな伝書『専応口伝』は、いけばな伝書として当時もっとも整合されたもので、冒頭の序文は有名である。

「花瓶に花をさすこといにしへよりあるとはききはべれど、それはうつくしき花をのみ賞して、草木の風興をもわきまえず、たださしたるばかりなり。この一流は野山水辺をのづからなる姿を居上にあらはし、花葉をかざり、よろしき面かげをもととし、(中略)ただ小水尺樹をもって江山数程の勝概をあらはし、暫時頃剋の間に千変万化の佳興をもよおす、あたかも仙家の妙術ともいっつべし」 (『専応口伝』天文十一年)(註6)

ここで専応は「池坊のいけばなが、ただ美しい花を賞するのではなく『草木の風興』を考えながら少しばかりの水と小枝で『野山の『自ずから成る姿』をあらわし、それによって広大な景観と千変万化の佳興をもよおさせる妙術だ」と言っている。
それ以降のいけばな伝書にはこういう問題に対してこんなに踏み込んだ内容のものはなく、ただいけばなの技法の列挙や来歴、効用が述べられているに過ぎない。近代に入って、山根翠堂、勅使河原蒼風などに至って再びいけばなの意味が答えられるようになる。

「枝を切り取られて居るのも、根元から切り離されて居るのも、共に壊された自然であります。凡ての切花が既に破壊された自然でそれを復活さす為に、愛によって洗練されたる技巧が必要となります。洗練されたる技巧と、高められたる人格と、深められたる思想によって、気絶して居る切花たちが(新しい生命を得て)甦って行くのであります」(山根翠堂『自然と作品』大正十二年十月)

「なんといっても、花は自然の立派な一つの完成品です。花の美しさは、一つの約束を持った既成の美しさです。この花をどんな取扱ひをしてもよい、どう挿しても美しいなどと考えることは正しくありません。花は折られると同時に、根から離れ、大きな、正しい自然の統一を失ひます。(中略)この、一度自然から離れて死んだ花の美しさを、再び生かすだけでなく、自然にあった時より、もっともっと自分と親しみのある美しさに置かうとするところから出発をし、研究したのが、日本の『いけばな』の精神なのです」(勅使河原蒼風『新しい生花の上達法』昭和八年)

『専応口伝』が書かれた十六世紀と山根翠堂、勅使河原蒼風とのあいだには四百年の時間の隔たりがあるが、これらのいけばな観には共通性が認められる。
まずそれは、自然の内に統一されている草木や花の美しさと、そこから切り離されたいけばなの美しさとのあいだに明確な区別を置いている。しかし、いけばなは草木や器にいけばな作者の手が加わってできた新しい秩序であるという見解の一方で、それが一度破られた自然のまとまりを、自然に範を取った『自ずから成る姿』によって回復させる試みでもあると言っているのである。
そこには、いけばなが自然を根に持ち、自然がいけばなに力を与えるということに関する確信がある。いけばなをいけるという行為には、力としての自然を祭る祝祭の余韻が残っている。

(四)いけばなの形

自然は祭られることによって出来事をもたらす。出来事は常に一回限りで、次々に生まれては消えていく。それを人は配列を整えた語りによって、意味や価値、雰囲気、味わいといったものを持つ、幾度も再現できるテキストとして受け入れていく。
けっきょく人が生きる世界は物語によって秩序化された世界以外のどこにもない。一つ一つの草木の表情を受け止め定着させていこうとするのがいけばなであるならば、花型はでき上がった作品の抜け殻、堆積された歴史の抽象に過ぎない。しかしそれは、花型の側から見ると草木全体をまとまりある形に仕立てあげる約束であって、草木はその枠組の中にあるかぎりで意味を持つのである。
人には、見えない文化の透明な拘束を生きる以外の生はなく、いけばなの約束に従う以外に出来事の記述はない。むしろ、いけばなという規範があるからこそその記述ということも考えられ出来事が生み出されもするのである。
成立期以来のいけばなの形は、自然景観と身体という二つの極を持つ枠組、あるいは両者の共鳴形態と考えられる。その約束にそって、いけばな作者は語るべき草木の記述を考えていった。
その自然景観とはもちろん実際の景色ではない。森羅万象の内に神々を見出す日本の古い信仰に、華厳的な世界認識や、禅、阿弥陀経、朱子学、易学なども響きあって融合した曼陀羅にも似た世界の『似姿』、図像化である。
その一方で、いけばなは天文時代の花伝書類でも、景観だけでなく身体の比喩によって語られることが多い。(註7)それは、いけばなが人の見ぶりの外延としても意識されていたことを示している。
もちろん、『景観』すら、人々の視点という枠によって切り取られた模型としてあるという意味では、身体の図式といっていいものだろう。いけばなの成立とはこの『似姿』の出現のことであり、それは人々の知覚に触れる出来事としての自然を叙述する舞台の一つが設定されたことを意味している。
いけばなが『草木の自ずから成る姿』の図像『似姿』として切り出されるというのは、ちょうど絵画や彫刻が、神の模像『イコン』として作られたことに類似している。
人々はイコンを通じて初めて神々を見るのだし、似姿の彼方にしか「江山数程の勝概」はのぞめない。『本物』は『似姿』によって遠ざけられ、触れることのできない至高の存在となり、逆に『似姿』は『本物』の権威によって聖化され、祭られる。似姿には本物をめざし、シンボルたりうるための説得力−リアリティが求められるが、似姿とそれがめざすものとは、祭られる構造ができるとき、初めて同時に出現する。
だから、似姿のリアリティとはそれが本物そっくりかどうかなどではなく、祭られる構造が説得力を持つか否かの問題である。似姿はそのつど閉じられる作品をめざしながら、その実変化していくテキストとして、歴史の中で自分自身を豊かにしていく他には、生きた場を保持することができない。
たとえば、桃山から江戸初期にかけて池坊専好二代が築き上げた立華様式にしても、彼らのいけたいけばなの全体が、当時の立華という主題の、さまざまな変奏にほかならない。変奏は決まった約束を持っているように見えても、実際にはその場の出来事に対する常に新しい解釈であり、世界はそれによって、そのたびに組み合わせやバランスを変えて裁ち直されていく。
専好の立華は、生きた出来事として人々を捉え引き込んでいく働きであり、いつも、できあがった立華の様式からはみ出す新しい展開のための途中経過だった。それは草創期の人間だけが持つ自由である。桃山から江戸初期の社会制度の流動化がそれを可能にしたともいえる。
それに対して様式が固定されて人々を縛るとき、いけばなは出来事を常套的なテキストに置き換え、生きた体験を殺す装置になる。装飾は逃げ場として過剰な発達を示すが、装飾のヴァリエーションは精確に制度の枠組をなぞりながら発展していく。その時代のいけばな作者が様式を変えなかったのではない。様式の背後にある秩序の力が固定不変のものとして人々を縛ったのである。
彼らが秩序を祭る祭司にはなれても、世界生成の追体験を持つことができなかったのは、彼らにとっての『自然』が出来事の出現とその組み合わせ方によって変わる多様な世界としてではなく、たった一つの絶対的な構造として映っていた、そのことのためである。しかし、そこでも草木は閉ざされた制度としての『自然』と人とをつなぐ場所で、出来事としての自然を祭ってもいた。

註1)「花を愛する者の魂の記録」『山根翠堂』山根有三編、真生流本部発行
註2)「生花の芸術」同書より
註3)同書及び「新しい投入と盛花」重森三玲、晃文社刊など
註4)『山根翠堂』山根有三編、真生流本部発行による
註5)『仙伝抄』「奥輝之別紙」など
註6)『専応口伝』など
註7)『仙伝抄』『唯心軒花伝書』など

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