いけばなの近代 (勅使河原蒼風)



いけばなと芸術(広瀬典丈)

      →ceramics sitemap →典丈Sitemap (1988年3月〜1990年1月Parantra掲載)  
Contents_(1)山根翠堂と自由花運動 (2)重森三玲と『新興いけばな宣言』
(3)いけばなと自然 (4)いけばなの形
(5)いけばなの近代 (6)勅使河原蒼風の自由花 (7)勅使河原蒼風と戦後いけばな
(8)『現代いけばな』と新たな動向 (9)いけばなという制度
(10)いけばなと「国際文化(11)いけばなと出来事

(五)いけばなの近代

明治の革命によって江戸時代の秩序は否定され、西欧の制度を移植しながら日本の社会や文化は再編されていった。
いけばなも一度はその基盤が失われながら、明治体制が安定すると今度は近代社会を支える婦女子教育という名分を得てよみがえっていく。そのいけばなは江戸期そのままの窮屈な『格花』で、その様式は大正、昭和、第二次大戦後、現在でも命脈を保っている。
明治以降、最初に日本の庶民がめざした生活世界のモデルは、江戸期武士階級のそれで、その家には必ず床の間が置かれていた。床の間の普及とともにいけばなは習われるようになったのである。封建的な社会秩序の組み替えによる庶民の上昇志向の中で、儒学や禅を支柱とした士族精神が理想化され目標とされた。それをなぞるように良家の女子の習い事が始まる、それは明治期庶民文化の大きな流れの一つである。
山根翠堂は西欧近代の芸術思想を援用しながら御用的な格花の潮流に対して戦いを挑んだが、一方で小原雲心・光雲の盛花も批判の対象にした。彼のいけばなと小原雲心・光雲の盛花とのあいだにはどんな違いがあったのだろうか。
小原雲心・光雲の盛花が、江戸期の文人瓶花の伝統や盆石につながる趣味から発していることは前に言った。
しかし、文人趣味の『風致いけ』が、盆景から洋風の飾花的な表現に発展していったとき、いけばなが持っていた精神性の何かが失われたと山根翠堂は考えたのである。
小原流の盛花は、当時の自然主義の文学運動、とりわけ正岡子規の『写生』と結びつけられる傾向があったようだ。しかし、すでに自然の一部である草木を象徴的な場から奪いされば、いけばなの作品化自体が危うくなる。いけばなの『写実主義』は当時のいけばなの表現形式にとって自己矛盾でしかない。雲心や光雲の新様式は、いけばなの意味を変える問題をはらんでいた。(註8)

『文学』における写実主義「風景の発見」が、それまでの日本人の、認識の布置そのものを変えてしまったという指摘がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社)(註9)
柄谷行人によれば、『風景』とは「孤独で内面的な自我」によって見出された『外界』にほかならない。近代自我意識の成立が少しづついけばなの主題を個人的なものに変えていき、いけばな作者の作家意識も芽生えてくるのは、自然が人々にとって共感の場から『風景』という『外界』に変わっていったことを示している。ただ、いけばなでは象徴的な草木観がいけばなの構造を支えていたことから、近代的な『自意識』の表現である『近代芸術』とのくい違いをそのまま抱えこまざるをえなかったのである。

山根翠堂にとっていけばなは、<しん>と<下草>による構成そのものであり、草木の象徴性は当然の前提である。しかし、その一方彼は作者の個性にも言及せずにはいない。そしてそれを「花それ自身の本質的生命との合致」と言っている。
彼が『個性』を主張するのは、たんに『芸術論』に引っぱられたからではないだろう。翠堂のいけたいけばなは作者の自己がめざす彼岸を示そうとする試みである。それこそ、山根翠堂の自我意識と作品の近代性を如実に示している。
翠堂は『自己意識』によって『自然』をみいだし、いけばなに自己の『内面』の救済という『主題』を担わせようとする。彼にとっていけばなは、『自然』つまり『風景』をみいだすための手段ともなったのである。
翠堂が『文人花』や『格花』の手法をいち早く拭い去って、洗練された簡潔な投入自由花を確立できたのも、彼の強い自意識にとって投入の形式が本来持っていた自由さがぴったり呼応した結果だろう。自由であることは彼のいけばなのだいじな条件であり、彼の自由花が練習花としてたった一つの花型しか生み出さなかった理由でもある。
ところが、もともと投入が持っていた自由は祝祭的な『自然』との共鳴によってもたらされたものであり、作者の個性による自由ではない。
翠堂はそのことに気づいていただろう。彼が「『花それ自身の本質的生命』との合致、おのれの本願に従うことが自由花だ」と言っているのもそのことである。
もちろんこうした合致を言うことが逆に自然と自己の対立を明らかにする。ただ同時に日本近代が形成した『人格』の中に、西欧近代に見られるものとは異なる自然観がひそみ、それと近代日本人に見られる自我意識が呼応していることも事実であり、山根翠堂はいけばなの場でそれを体現していた。(註10
翠堂のいけばなが、画学生出のふつうの啓蒙派インテリである重森三玲などのような人達にとって「新味が乏しい」「自由花の定型化」「マンネリズム」といった評価を受けるのは当然である。(註11)
彼らにとって芸術は近代自我の確立とその発展を世界史的な同時性において表現していく場であって、それには絶えざる『自己変革』と個々人の『創造性』が求められる。一方山根翠堂の自由花では、作者の個性は「花それ自身の生命との合致」へと向かい、創造性の替わりに「自然の新しい甦り」「人および花の本願」が置かれる。重森三玲などには、それは自我の未成熟としか映らないのである。
山根翠堂のいけばなと近代以前のいけばなを分かつ大きな違いは、彼のいけばなには『視点』があり、それに導かれて作者と鑑賞者が作品を体験するという近代絵画の遠近法にも似た明晰な構成法にこそ示される。
翠堂がいけばな写真をつねに意識し、それを有効に使い、作品写真による批評、鑑賞という方法を始めた最初のいけばな作者だったことは偶然ではない。
むしろ、彼の新しい自由花作品はいけばな写真を写すことを通じて成立した、といっても過言ではない。ファインダーの固定した視点が、いけばなの世界に自我と自然の分離を意識させ、ひいてはそれまでのいけばなの、草花から常緑樹へと向かう時空的、層的構造から、自我と自然との対立と融合という劇的構成法への転換を促したのである。
山根翠堂をふくむその時代の新しいいけばな作者達にとって格花が窮屈なものに思われ、いけばなのパターンである『花型』が否定的に捉えられたのもこの時代のいけばなの構造的な変化がもたらしたものであって、たんに江戸時代のいけばなの硬直性に対する批判ではない。
立華・生花の形を支えた象徴的な世界は日本人が知っていた唯一の祝祭的な『自然』の雛形であったが、そうした古いいけばなの世界が、彼らにとっては急速に遠いものになっていった。それと同様に文人投入は南画・俳画的な趣向を離れて新しい投入・盛花様式にとって替わられたのである。
近代いけばなの基本的様式である投入・盛花は、古典的な格花や文人花に比べるとわたし達にとってずっと身近かに感じられる。
それは、いけばなを細かい禁忌や制約から解放して人々の草木に対する感動をすなおに表現できるようにしたと思われた。だがそれはわたし達がもう古典的ないけばなの構造に説得力を感じない世界に生きているからにほかならない。
どんな時代でも、人々はある文化の枠組の中で一定の約束を通して自由に振る舞うことができる。『自由花』もその意味では、約束を離れてただ自由ないけばなでないことは当然だった。
当時の理論家には、いけばなの類型化の原因を格花の『花型法』に求める主張があるが、その主張の前に、彼ら自身の思考方法の類型性をこそ反省すべきなのだ。(註12)

(六)勅使河原蒼風の自由花

山根翠堂や勅使河原蒼風の自由花は、明治期の支配文化やそれを映す庶民文化とは違う。新時代の雰囲気の醸成によって熟していったモダニズムと日本文化の確執・相互浸透の現われである。
都市には工業製品や近代ビルディング、アール・ヌーヴォーからアール・デコ、バウハウス的機能主義に至る工芸品、映画、文学・芸術運動が、マス・メディアによる未曾有の情報とともに氾濫した。
いわば、日本人が初めてヨーロッパ世界と同時性において世界史を体験したのである。重森三玲や山根翠堂、勅使河原蒼風などにうかがわれる当時の都市文化のインタナショナリズムを、こうした時代精神ぬきに理解することはできない。
大正・昭和期の日本文化の再編によって、いけばなは西欧美学や芸術論的な観点から論じられるとともに、床の間空間を離れて洋間や玄関、はてはホールや展覧会場へと発表の場を広げていく機会を得た。
しかしそれは逆に、床の間空間がそれまで保ってきた聖なる位置が薄められ相対化して住宅建築中の客用和室の小道具に過ぎなくなったことも意味している。いけばなはそうした都市部の環境の変化によって床の間空間が保証した意味づけを奪われ、押し出されて床の間を離れたという事情もある。
勅使河原蒼風が、草月流の最初のテキストで「新しい生活環境」という問題を強調せざるをえなかったのも当然である。
そのテキストで勅使河原蒼風は、花型を三つの役枝による構成という基本的な約束と、その役枝の動きの組み替えによる変形という、形態的な問題として考えている。
これは江戸期以来の陰陽五行説や天地人などからすればすこぶる合理的な考え方である。それによって彼は、床の間によって支えられてきた花型のイコンの聖性をはぎ取り、花型を自由に解釈できるテキストに変えることに成功した。
それが、景観と身体の二極を揺れる花型の、より身体性への比重移動をも促し、いけばなを西欧彫刻的な造形意識や『心象表現』に近づけていく成りゆきを準備したのである。
江戸時代の花型のリアリティが、説得力を失い、都市的な環境の中で、西欧的なリアリズムや個性、近代という道具立てが広がっていく時代の雰囲気、それが勅使河原蒼風のいけばなを決定した。
いけばなにまつわる似姿の聖像性の剥奪によって、いけばなの場は床の間から玄関、ホール、ウィンドー、花展会場へと広がり、江戸後期以来硬直していた花材の組み合わせに対する禁忌が完全に外される。
花材や花器の組み合わせの自由は、蒼風以前に少しずつ進んでいったことかも知れないが、それによっていけばなの置かれる舞台そのものが変わったことを意識化したところに蒼風の世代のいけばな作者の時代性が現われている。
江戸時代の文化の脈絡から距離ができたことで、いけばなの花材の意味は急速に流動化し、旧時代的な常套句の枠内ではそれに対応できなくなった。蒼風の自由花は、出来事の新しさに見あうだけ変わって、草木に新しい表情を見つける可能性を開く。それは第二次大戦後の蒼風の華々しい活動に比べれば一見目立たない。けれども、草木のもたらす新しい出来事が古い統辞法を揺さぶりいけばなの構造を変えていく過程は、そこにもじゅうぶん示されている。

ところで、イコンの聖性は典型としての単純さに支えられていて、要約された抽象形という形で成り立っている。
しかもそれは人々の身体的な認識とからんだ、世界の似姿という意味で、主観・客観という近代の構図を越えている。
リアリズムの精神とは、イコンを離れてものに客観性・主観性の対立を持ち込み、人間の視点を目かくしして「背後にあるはずの真実」を「ありのまま」に見ようとする態度である。
ものと精神が分離するとき、人は初めて『精神』や『個性』を介してものに出会うようになる。いけばなの形や花材の聖像的な意味を否定していけばなを床の間から解放した勅使河原蒼風は、その意味からも、いけばな界のリアリスト、芸術派として登場しているのが分かるだろう。
しかし、ここでも忘れてはならないのは、西欧造形芸術が人間中心主義によって自然から分離しているのに対して、蒼風のいけばなが自然に向かって開かれている、という違いである。
それが造形芸術家から、勅使河原蒼風や他のいけばな作者が造形的な弱さ、甘さとして、しばしば批判を浴びる理由で、いけばなはここでも人間のフォルムよりはより自然にその範を取り、自然と人をつなぐ場所に置かれていることが指摘されるのである。

(七)勅使河原蒼風と戦後いけばな

勅使河原蒼風は、一九三〇年代からいけばなの形や花材の新しい扱いの工夫をし、枯れものや鳥の羽のような生きた草木以外のものも少しは使い始めていた。また、重森三玲やシュルレアリストの福沢一郎、滝口修造、バウハウス的な機能主義建築家、佐藤武夫などとの親交によって、国際化した都市インテリの時代精神に直接触れている。
しかし、戦時体制の進行とともに世界的な文化交流と移入の波は急速にひき、いけばなの世界も復古調のものが主流になっていった。第二次大戦後の勅使河原蒼風の世界はそれ以前の彼の活動と比べても大きな違いがある。
一九四八年から五〇年代にかけて、木の根・葉・花の量塊的構成から鉄の機械廃材や石などを使ったオブジェ的ないけばななど多彩な展開は、戦後の革新的な時代風潮に乗って、保守派の非難を浴びながらも大きな反響を呼び、けっきょくはいけばな界に『戦後いけばな』のうねりをもたらした。
第二次大戦後の欧米の文化の移入と照応して、大正・昭和初期の都市文化の流れはよみがえり全国的に増幅していく。シュルレアリズム、ロシア・フォルマリズム、バウハウス、機能主義、抽象絵画、アンフォルメルなどの美術運動がどっと入ってきて、いけばなにも、近代化という汎人間主義的な西欧の歴史観がはっきりと意識されてきた。
建築や絵画、彫刻などの世界から『憑き物』が取り払われ、快適な生活のための道具という実用的な役割配分が与えられていったことと『近代芸術』という制度の成立は表裏の関係で、近代リアリズムは『芸術』を支えるイデオロギーとして働いてきた。それは、合理主義、科学、進歩、発展などと並ぶ、近代西欧世界が築き上げたシステム、都市文化の中心的な道具立てである。それは、神話やあたりまえの事実を越えて、ものの背後、細部、裏面、今だかって見たことのなかったものを暴こうとする考え方だった。
西欧近代芸術の『前衛』−アブストラクトは、人々が知らなかった新たな現実の発見という見ぶりの点で同じ近代リアリズムの舞台上の出来事として、いわば「歴史的必然」「芸術の普遍性」において、戦後のいけばなを方向づけていったのである。
勅使河原蒼風は、地下に隠されていた木の根を用い木の皮を剥いで内を見せる、といった手法から、鉄の廃材、石、紙などまで使った。それは、なれてしまった自然を見慣れないものに変え、そこに新鮮な驚きを見いだすべき『外界』を作りだす手法である。これがいけばなのオブジェであり、蒼風の『戦後いけばな』は、まず花材の見直し、次に草木以外への花材の拡大という方向をとった。
草木の栽培や本草学からその<出生>を調べ、花形を決めていくのが『生花』の時代だったとするなら、戦後いけばなの時代精神はそれと対照的である。
生花の『出生』という言葉に込めたイメージは、自然の草木の一つ一つに造化の理を認め、それに従うことだった。生花でいけられる草木は、個々の枝や草花を越えた典型としての「自ずから成る姿」を現わしている。だから、作者個人の勝手な解釈や扱い方の自由は許されない。作者に求められるのは「自然の理」に同化・共鳴しその働き自体になる修練なのだ。
それに対して、蒼風では彼の草木に対する関心や興味が具体的な枝や花・葉のある部分の個人的な特殊な見直し、発見という態度に変わっている。それは、人それぞれの思いが表現の目的であり、作者個人の花材に向かう造形意識が新しい感動の発見のために最も重要であるとの主張がある。(註14)
しかし、この蒼風の態度は、掛け値なしのものではない。いけばな的な態度と近代造形芸術的な態度のあいだで、微妙なバランスを保っていたのだ。
山根翠堂も勅使河原蒼風も江戸末以来の文人趣味の教育を受け、文人花の流れとして彼らのいけばなを始めた。江戸期文人は、草庵をかまえ茶の湯や漢文学、書画、いけばななどの脱俗の風雅を楽しむ「市中の山居」の俗人達で、彼らの立場は脱俗、中国(異国)趣味、高踏といった好事家的な自由である。
勅使河原蒼風が、いけばなの他に書画、篆刻、彫刻などはば広い活動をし、西欧造形芸術に旺盛な関心を示したことも、文人としての脈絡にかなっている。彼の作品群を見れば、その『造形』という言葉が、必ずしも近代芸術の枠に納まらず、一見モダンな発言の底で、いけばなを『自ずから成るもの』として捉えていたことが分かる。それが逆に、自我意識の揺れから二〇世紀の西欧芸術に生じた、偶然性、非構成、生成、変形原理などに対する関心と蒼風のいけばなを結びつけたのである。
第二次大戦後間もない頃の、雑誌『草月』に、こんな文章がある。

「いけ花の形態が、たとえどのように変化しようとも、その本来の性格は空間感覚の形式的な構成に外ならない。それは如何なる材料を使おうと、構成原理を移動させようと、つまり新しい空間の秩序を追及することに帰する。その意味では本来彫刻の素性に通じるものが多かった。伝統的いけ花においては、枝や葉や木を使うことによって、線状的な構成が目立ったため、ややもすると絵画的効果の中に納まり勝ちだったが、この線状が前後左右に放射する方向感覚は造形的構成を立体的に要求するもので、絵画的効果に統一される筈のものではない。しかし長い間に、いけ花の技法はいよいよ様式化されるに及んで絵画的な平面性に傾いていったようである。元来いけ花の視点は、前面にあって、集中的な統一を予定している。この前面性が長い間に絵画的平面に堕する危険を誘発して、行儀よくまとまり、平面的な構図におさまる傾向を示すに至って、折角の立体構成の本質を弱めてきた。そうした様式化に反抗して、強力なデモンストレーションを敢行した草月流の革新は、狭隘な様式化に対する挑戦で、従っていけ花の平面性に対する抗議であり、立体構成の解放であったといえよう」(『いけ花と空虚空間』富永惣一「草月一九号」1954年)

いけばなの奥行きを、物理的な立体の問題としたり、草木を素材一般に解消して彫刻といけばなを簡単に同一視するなど、西欧近代合理主義下の類型的思考の典型だが、それは重森三玲とも共通していて、文化を西欧をモデルとした静的な閉じた分類によって説明するものである。
そして『自我の確立』『自己主張』『個性』『独創性』、はては『歴史的進歩』『発展』『新しさ』などという、一見分りやすい批評軸を設定することで制度として完成するのだ。
いけばなの奥行きは絵画のような平面上に現れるわけではない。しかし、構成されたいけばなには物理的な意味とは異なる独自の空間がある。いけばなが、鑑賞者に正面に回ることを促したとしてもそれはいけばなの弱点ではなくそれによって鑑賞者はいけばな空間に導かれる。それはたとえば、演劇空間が観客席という固定した方向に開かれているのと同じである。
<しん>と<下草>という古いいけばな構成法に対して、戦後の新しいいけばな構成の原理はシュルレアリズムのコラージュやオブジェ、あるいは、近代デザイン理論をいけばなに応用しようとした。前者は、いけばなに木の根や石、鉄、その他の異質な材料を持ち込み、花器に花をいけるという手法を離れて最後には、生きた草木をまったく用いないシュルレアリズムのオブジェのようないけばなにも発展した。
勅使河原蒼風のオブジェ的ないけばなはその代表的なものである。それはシュルレアリズムのドグマである「日常空間の異化作用」という理念を越えて、いけばなの世界に「自ずから成る姿」を祭る新しい方法として受け入れられていった。
後者のデザイン理論の方では、草木の枝・茎・花・葉などの部分をそれ特有の線、色彩、ボリウム、材質の要素として、素材的に扱っていくことを考える。すると、それまでのいけばな観では不可能だったスペースデザイン、彫刻的な構成原理が、そのままいけばなに適用できる。それは、草木の出生という自然観を一新して、省みられたことのない草木の新しい側面を照らし出した。
パウル・クレーが絵画の世界で、絵の具によって描かれる線や形、色彩を、「対象としての自然の似姿」から解放し、絵の具それ自身を見えるようにしたのと同様に、古典的な自然観やいけばなの古典様式を離れて草木にどんな角度から光を当てても、そこには見直された新しい自然が現われ、草木をめぐる記述はどのように鋳直すこともできる。こうしたいけばなは『造形いけばな』と呼ばれている。それは、勅使河原蒼風自身よりもその門人達によって研究会などを通じて発展していったものである。
第二次大戦後の蒼風の作風の変化は、彼のいけばなのすべてに起こったのではない。むしろ、小品の大部分は戦前からの作風をそのまま踏襲した古典的な構成による自由花である。それらはまったく「造形的」な花材処理のない無造作なほど何気ない作風のものも多い。
それらの「自然」ないけばなと新しい作風との関係を、蒼風のいけばな観にそって考えて見る必要がある。翠堂も蒼風も江戸期以来の文人趣味の教育を受け『文人花』の流れでいけばなを始めた。江戸期文人は草庵をかまえ、茶の湯や漢文学、書画、いけばななど脱俗の風雅を楽しむ「市中の山居」の俗人達で、その立場は、中国(異国)趣味、高踏といった好事家的な自由である。
蒼風が、書画、篆刻、彫刻と巾広く活動し西欧造形芸術に旺盛な関心を示したことも文人の脈絡にかなっている。彼の作品を見れば、その「造形」という言葉が必ずしも近代芸術の枠に納まらず、モダンな発言の底でいけばなを「自ずから成る姿」として捉えていたことが分かる。それが逆に、二〇世紀の西欧芸術に生じた「偶然性」「生成」「変形」などに対する関心と蒼風のいけばなを結びつけたのである。
『自由花』は、その出発点で『立華・生花』を自然とのつながりを持たない制度化された技巧の見せ場だと批判したが、ひるがえって自分達の花形の説明は不十分で、自由、自然という以上のはっきりした考えを示せなかった。花瓶に花をさせばいけばなだと思っていたふしもある。
それは、江戸期文人が立華の難しい技法を批判して、自然のままに「なげ入れる」「さして定なし」と述べた『なげいれ花』の主張と同じである。もちろん、木の枝や切り花を水をはった花瓶に入れるのはすでにある文化的な行動でそれを無作為とか技巧が無いなどと言うのは文化に対する無自覚だろう。
『自由花』の『格花』批判は、それまでいけばな史に何度もあったくり返しの再演である。「自然の自由」な『なげいれ』から規式を整えた『たて花』に発展したいけばなの歴史で、規範化された『たて花』に対して現われた『立華』が、いけばなの世界に逆に制度として取り込まれ、その『立華』を批判した『茶花・投入』が『生花』としてまた取り込まれる、『格花』を批判した『文人花』『自由花』もいけばなの様式の一つとしていけばな界の秩序を支えるようになる。それは自由と秩序をめぐって、一見対立しながら、いつまでも「自然」という枠組の内を循環する。
蒼風は、西欧芸術を含む多くのものに旺盛な好奇心を持ちそれを消化した。いけばなばかりではなくさまざまな分野の横断的な仕事をしたが、そこには一貫した勅使河原蒼風の刻印がある。しかし、蒼風は彼が置かれている文化そのものを対象化し、その枠組を離れて見るような場を持っていない。その意味では、当時の知識人一般と同様、内には西欧芸術の紹介者、外には西欧とは異質な文化を背景にした表現者としてふるまった。だが蒼風の仕事は、西欧的な装いを凝らしたものであったとしても、いけばなとそれを支える日本の文化の脈絡の中で、その多様な表現のヴァリエーションとして考えていくことができるのである。

註8)「いけ花とは何か」北条明直、角川新書、「いけばなの歴史」大井ミノブ、主婦の友社など
註9)「日本近代文学の起源」柄谷行人、 講談社
註10)「生花の芸術」(註2)に同じ
註11)「自由花偶観」『国風』大正十二年、(註4)に同じ
註12)「自由花は何処へ行く」『華道画報』「ネオ・ダダイズム・フラワーアレンジメント」『道』重森三玲、(註4)に同じ
註14)「創造の森」草月出版

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