(八)『現代いけばな』と新たな動向
古典いけばなの世界は「何気なさの典型」として意味づけられ、作為は不自然さとして排除される。近代の『自由花』は、いけばなの「芸術性」を問題にしたが、それも西欧的な自我意識よりは「自然」への即融に導かれた。第二次大戦後の勅使河原蒼風のいけばなにも西欧芸術とは異質な自然観がある。
敗戦後の新様式『造形いけばな』は、デザイン的な草木の処理で「自然」の枠を広げたものの、それはより包摂力のある「自然」に再び引き寄せられていった。どんないけばなも『自然調』『造形調』という型の幅におさまるのである。
たしかにそこでは「個性」「自己主張」「独創性」などの言葉が交わされるが、その意味は、西洋近代の「自我と自然との対立」の構図とは遠くそれぞれの持ち味ほどの意味に過ぎない。
勅使河原蒼風と草月流の『戦後・造形いけばな』は、他流派を取り込んで一九六〇年代には未曾有のいけばなブームをもたらし、いけばなの新様式として定着した。
一方、保守化した『戦後いけばな』に変わって、再び欧米現代芸術の紹介、吸収によって、新しいいけばな運動が始まる。『白東社』の中川幸夫、石川県の『いけばな新進会』『グループ亜土』『八人の会』などの作品発表と『いけばな批評』の活動は、『戦後いけばな』に変わる新しいいけばなの方向性と理念を示そうとしたもので、そこには、それまでのいけばな観とは異なる「いけばな」があった。(註17)↑
『現代いけばな』の特徴は、この活動がいけばなよりも米欧の現代芸術の動向によりつながっていることにある。
それらは最初、重森三玲ら美術批評家のいけばな=立体造形芸術=彫刻といった一般論を出ず、現代彫刻の模倣・追随に過ぎなかった。
しかし自然と世界の見直しをはかろうとする現代芸術の最前線と、植物が西欧的な芸術観とはなじみにくい「素材」であることが照応して、現代芸術の動きをうかがう思惑を込めていけばな界の一部は活気づいた。草木を彫刻の独自の「素材」として捉えると、それはすでに古典彫刻の素材観からはみ出すオブジェなのだ。↑
彼らは「日常世界」が事物を見過ごす理由を、人々が実用的な「意味」に縛られているせいだと考える。すると、芸術家の戦略として、ものごとをその機能する枠組から外して「日常的な意味」を無化し、日常とはかけ離れた脈絡の上に置く「異化」などの手法が生れる。
『現代いけばな』派は、いけばなを「固定化された世界」から草木の意味を「ずらす」ための「装置」として「造形芸術」的に意味づけようとした。しかし、制度としての「芸術」も「いけばな」も問わないまま、ものをオブジェとして美術会場に持ち込めば観客の常識がそれを「芸術」として受け入れるだろうとする期待がそこには働いている。
自然の草木には人が意味づける以外の意味も役割もない。ずらす意味があるのは「いけばな」や「芸術」の名で生き延びてきた「装置」の側である。
芸術家達が考えるほど、世界は「日常」と「芸術」に対立しないし、その程度の手法で、制度化された世界の枠組に変化が起こるわけもない。この世界には「常識的な日常生活」と「芸術的世界」があるのではなく、生起する出来事を常套句に包み込む制度と、出来事を読みかえしていく人間がいるだけである。
人々にもっとも自然に見える制度の力も、出来事の不安定さ、揺らぎを静めることはできない。このとき本当に変更を迫られるのは、出来事を支える枠組としての制度の側だろう。↑
『現代いけばな』の作家達も制度の組みかえを言う。観客の意表をつくだけでは早晩限界が来るから、彼らの実際的な活動は都市空間を飾るキッチュ、「環境への働きかけ」「都市の遊び」である。こうして、いけばなを植物を主素材とするスペースデザインに解消することが『現代いけばな』のヴィジョンになる。
消費され、擦り切れたものごとを「異化」でよみがえらせる現代の芸術家には規範化された世界を再活性化させる役割が割りふられる。
『現代いけばな』派の問題点はその基盤の「造形芸術」という制度にまったく不安を持たない楽天主義にある。それがあまりに常識であるために、制度の下にある草木を見過ごし「素材」という抽象物におとしめている彼らが、一見常套的な日常世界に対立し世界の流動化をもたらすように見えても、制度を対象化できないそれはけっきょく予定調和に終る。↑
一方、戦後の新しいいけばなと古典流派との対立、相互浸透から、古典花の見直しという別の波紋が生まれた。池坊では『正風体格花』の批判と『立華』の池坊専好、『生花』の池坊専定の見直し、いわゆる『新風』の運動が起こる。花材の動きで枝配りを決めていく『現代立華』『現代生花』である。これは洋花などの新花材もいけられる現代風の『立華・生花』として生れたが、成立期の『立華・生花』の再生という要素も強い。
そして戦後の新潮流からも『戦後・造形いけばな』のマンネリ化の批判と再布置、『投げ入れ』『格花』の再評価が行なわれた。
こうした傾向は、経済再建と高度成長期の保守化と結びつけられるが、むしろ、戦後日本の枠組の確定と掲げられた理想の射程が見えてきたことを踏まえた、いけばな再編成の流れに対する、『現代いけばな』とは別角度からの反駁と見るべきである。しかし、これもいけばなの場そのものを問う姿勢は無くそれまでと同じ枠組に留まっている。↑
(九)いけばなという制度
制度的に保証された場所で、それに乗っていけばなをいけることが、常識的な意味に縛られることなのであって、扱う花材の意味を無化しようが、異化しようが、いけばなという規範そのものをゆさぶることはない。
啓蒙家達の錯覚で、人々は、新しい理念が芸術を変えるのだと思い込んできた。しかし、理念は世界を上滑りしてその制度の枠組に届くことはなかった。芸術思想による啓蒙ではなく、出来事や他の文化との衝突がいけばなに流動と変換をもたらすのである。
山根翠堂はいけばなを「芸術」という理念で説明しようとして、かえっていけばなの既存の枠組を強化した。彼のいけばなは、理念ではなく、写真という新しい媒体によって変化したのだ。小原雲心がその『盛花』で考えていたことは伝統的な中国趣味の範囲内だったが、洋花を自由に用いる道を開いたことで、いけばなはどんどん変わっていく。
いけばなを「立体造形」「彫刻」と言いかえても、いけばなの枠組は何も変化しない。いけばなが流動化するのは、芸術家が意図的にそれをずらすことによってではなく、その枠組とは異なる場所が突然見出されたときである。
そのとき、それまで信じられていた土俵が不確かなものに変わり、新しい足場でものは再編成される。それは当事者にも分からない見えない営為なのである。↑
いけばなという制度が無意味になるような場所とは何だろう。
「芸術」「独創性」「個性」「自己主張」、そうしたものを支えていた「近代自我」の信仰が「近代」という制度の枠組だった。その中でいけばなは、傍系的な芸術という場所を与えられてきたが、室町・桃山期・江戸初期の文化の中ではそれはむしろ中心的な存在だった。
もし、いけばなの世界に一貫して受け継がれてきた変わらない「意味」があるならばそれは、文化の基底のコードにつながっていて、日本人にとって第二の自然というべきものだろう。それを忘れていけばなを流行の思想にゆだねても、人は見えない枠組につながれて同じ場所をめぐるのである。
いけばなは、神道や仏教、文人趣味、西欧仕込みの芸術論などによっていくどもその意味を問われた。そのつど現われる新しい様式は、初めのうちいけばなの世界を大きく逸脱するように見えるが、しばらくするとそれ自体がいけばな的なまとまりの中に吸収され、いけばなの新しい構造を作っていく。いけばなはそれによって変化したが、他のものに吸収されたりはしなかった。むしろ、いけばな的な発想こそ日本の文化の様々な分野に現われる中心的な「範型」とさえ考えることができる。↑
いけばなで祭られるのは「自ずから成る姿」=「自然」である。人々は草木を自然に捧げ演技する草木を通して彼方の「自然」という神を見、自己と宇宙の融合を感じとろうとする。それがこの文化の基底の、宗教を越えた宗教である。
西欧のようなものと差し向いになる意識は、その意味を問い、その背後に理性的な存在を予想するから、そこでは我と汝の関係が生れ、意識は永久にものの意味を問い続ける。ものと向き合わせの関係を持たないこの文化では、自然とは「自ずから成る調和」であり、草木は超越的な意味も理由づけも必要としない。
超越の暗示である草木の花実・青葉・紅葉が、四季の移ろいを映す時、人がそこに自然の特別なしるしを見、いけばなという形に作り上げたことに不思議はない。しかし、出来事の向こうに自然という神を置けば、草木も私も抽象化され無化されてしまう。草木の向こうに自然があるのではなく、その出来事の多様性の一つ一つが自然であり、彼方にあるものは作られた「語り」としての「自然」に過ぎない。
語られる「自然」への回帰は、悟りと呼ぼうが脱自と呼ぼうが、個別の我や草木の出来事を滅ぼして行くことに他ならない。草木が背後を暗示するのではなく、草木にこそ謎はある。
人が花を心の比喩とし、花模様を飾り、花無しには祭礼も行なわないのは何故なのか。それほど花は人を虜にし、心を打つのだ。
近代のいけばなはそのイコン性を否定し花型を造形のテキストと見なす方向に向かった。そうなればいけばなは祭式的な意味を離れて自由に解釈出来る形のテキストになる。しかし、試みの多くは、どんなに大胆なものに見えても、現代のさまざまな意匠の枠組の中に納まる技巧に過ぎなかった。
それは表現する作者の意志があらわであればあるだけそうだ。作者の目指す表現の意図が作品を生みだすという考え方自体が、近代以降に生れた自我の神話に基づいている。出来事の彼方に「自然」や神を置こうと、手前に「自我」を置こうと、それによって個別の出来事が消されてしまう事態に違いはない。↑
(十)いけばなと「国際文化」
ものが生れるのは作者の意志である以上にある文化の脈絡上の出来事で、独創的な工夫による創作ではないし、内面の個性や自我の表出でもない。たとえ一人が作りだしたもののように見えても、作者の意志とは別のものによって導かれる、文化が織り成す綾である。その点から言えば、それは無為自然、自ずから成るものだ。
だから、ものがあることが作り手の作為ではなく、生起する出来事の自然な成り行きであって欲しいという願いはそれほど奇妙ではない。それは、何気ないものこそ自然であり、技巧的なもの、作為的なものは人間の賢しらで、一時的なものに過ぎないとする考えである。むしろ、この自然信仰の風土を考えれば、近代の自我意識に基づく芸術観がわたし達にとってどんなに特殊なものだったかがわかる。
もしその文化を閉じたままで保持していくことができたならば、自然信仰の枠組といけばなのあいだは葛藤無く過ぎたかもしれない。ところが西欧近代は単なる共同体の文化ではなく、異文化間の国際関係の中で鍛えられてきた都市の文化であり、相互理解を可能にする擬似普遍性を持っていた。近代都市文化としての西欧は、他者との交流が困難な個別の共同体的な祝祭やイコンを否定して、その代わりに近代合理主義とリアリズムを対置したのだ。↑
近代自我という新しい神の、普遍性のめっきの後ろには個別文化としての西欧の共同体的な枠組がある。しかし、現代の世界には西欧や日本などの文化が独立にあるのではない。江戸時代はおろか、明治・大正期の大衆文化さえよく分らないほど、日本の伝統文化はわたし達にとって遠いものだ。
近代文化が人々を捉えた時、日本の文化は開かれたものとして機能した。つまり、日本語が古来の文法構造と同じである反面、わたし達はその言葉によって他者の文化とそれなりに交流できるような語彙や言い回しを獲得し、それによって自分を意識し、語れるようになった。日本の文化は、他者との交流を通して擬似普遍性としての「国際文化」を伝統文化の上に接ぎ木したのだ。
それが逆に、伝統文化とわたし達を分ける断絶になっている。近代は伝統文化を相対化し、出来事や自然に対する新しい感受性を植え付けた。それは、世界中の現代都市間でおよその文脈や語彙、豊富な情報を共有するモダンという国際文化モザイクの一端を作っている。↑
モダンは、そうした国際都市間の共通文化としてすでに百年の蓄積の中で、緩くはあってもある種の閉じた文化を形成しつつある。それは資本主義社会が生み出した、情報化した大衆の文化であり、神なき時代の見せかけとして「本物」を求めるキッチュ文化である。そこで芸術は、環境に奉仕する道具としての機能が与えられている。
いけばなは、現代都市の大衆文化に組み込まれて、キッチュなインテリア、エクステリアとして消費されるようになった。それが目指す永遠の本物の神は「芸術」である。
そこではあい変わらず、表現主義者は「花材を自然から離れた『自己表現』に変えろ」と言うし、機能主義者は「大衆に媚びるあしらい=装飾を剥ぎ取って、いけばなのスペースデザイン化」を叫ぶ。シュルレアリストやフォルマリスト「ポスト・モダン派」は、「いけばなを『脱構築』して『意味』をずらせ」などと言う。
そういう山ほどの言説が、情報化した現代都市の閉ざされた文化を構成している。そこで語られる言葉も流行もモダンの枠組を逸脱せず、現代のいけばなはステレオタイプ化して、独創性の名のもとに現れる珍奇な形は、一見新しくてもおよそいくつかのパターンに還元されてしまう。逆に、いくつかのパターンがあればこそ「個性的」などともいえるので、モダンの枠組に納まる範囲で作者の数だけ「個性」は多様化するから、その盛況さの中に入ると人々は十分自由に「創作」しているような気分になれるのである。
むしろ、現代における異文化交流とは、モダンに包摂されない文化や、西欧も含む歴史的な過去の文化との接触かも知れない。それは共同体の文化に逆戻りすることではなく、モダンという枠組を破って文化をさらに開く新しい国際化の方向だろう。伝統文化との対話も、同じ文法構造枠の意識がある状況に対して取った文化的態度として読み取るべきで、伝統文化を言う時にはそうしたつながりと断絶を意識化していく必要がある。↑
(11)いけばなと出来事
和歌における花、『古今集』から『風姿花伝』にも受け継がれていく花実の論でも分かるように、日本の文化の中心にはいつも花があった。それは多くの民族の文化の中で、花唐草の装飾文が祭器に施され、聖域や祭礼が花で飾られることにも通じている。
人は生の手応えや肌触りといった実感を込めて花に出会うが、見る者、いける者から、一方でそれが遠い存在だからである。制度に縛られ、役割や他人を生きることも止めて、自己から離れたくなったとき、人は花を見るのである。『古今集』以来の歌論の「花実」の論には、心が詞の向こうにあるという超越の視点ではなく、詞に現われる出来事に触れて、そこに心を見るという明瞭な態度がある。
それは「ことにふれて物のあはれをしる」という、本居宣長の歌論に至るまで一貫している。「ことに触れる」とは、一義的には四季折々の花鳥風月に触れることだろう。壮大な花木構成である書院飾りの立華と、茶室を飾る一木一草の茶花、「雅び」と「侘び」という両極のいけばなも、『古今・新古今』以来の花の消息の内にある。それは華やかな花から「秘する花」「幽玄」「侘び」など、出来事に潜む目に見えない花、もっとも微かな兆しをも見逃さない美意識として洗練された。
いけばなの草木は、わたし達の眼前にとどまって、還元不可能な出来事のまま作品化されている。さらに個々の草木を見ていくと、出来事が絶対に孤独な姿で存在していることに気づかされる。それが宣長の言う「もののあはれをしる」ことの意味だったのではないだろうか。
それは彼方にある自然に神を見るのではなく、人々が直接触れる自然の一つ一つが神であるという考えであり、ものとの同化を期待するよりも出来事の身近にとどまること、出来事の触りを実感して行こうとする態度である。だからそれは、突き詰めて行けば個別の体験に帰っていかざるをえない。共同性を突き抜けて孤独になる他ない、そんな心のあり方である。
堂々巡りにも見えるいけばなの歴史で、一個の草木の出来事を形にとどめようとしたいけばな作者の行為は、制度ではなく、一つのいけばなの草木に触れて感じたこだわりというようなものである。↑
出来事に突き動かされ、それを脈絡づけながら生きる人間の生は自由ではなく、歴史や文化によって決定される。出来事そのものが、ある特定の文化の内で体験されるもので、いけばなをいけるのは、どうしても日本の文化の脈絡の内の行為である。しかし、それを知ることがそれを対象化する。
いけばなの形は、歴史的な制度としてあると同時に、出来事に向かって開かれもする。人は、自分が存在している枠組を越え出ることはできないかもしれない。しかし、他文化との接触や出来事の衝撃で、制度を切実なものに組みかえていくことはある。
日本の文化の「自然」類型の崩壊を伴うような、外の場でこそいけばなは問われる。それまで透明な素材であった草木が表に現われ、いけばなの形の意味が背後に沈むとき、草木の個別の出来事を記述することが、そのままその制度を裏返す実践となる。
そうした地と図柄の反転によって、綾なす意味のひしめきの手前に、出来事の地肌が瞬間現われる。
いけばながそこで、何か質的に変わることがあるとすれば、それはもういけばなの問題にとどまることではない。日本のさまざまな文化が、大きな枠組変換に置かれる。草木の出来事は、そこではさまざまな解釈に対して開かれていく。↑
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