沈黙(イングマル・ベルイマンの世界)
(パラントラ3巻6号1993年7月テーマ)
広瀬 典丈
中学時代、学校は映画館に行くことを禁止していたが、私は雑誌の映画評で、ヨーロッパ映画の新しい流れについて読んでいた。
そこでは、ゴダールやトリュフォーらと共に、なぜかスウェーデンの映画作家、イングマル・ベルイマンの名と、「夏の夜は三たび微笑む」「沈黙」などの紹介がされていた。一九六六年、私は岐阜の小さな劇場で「沈黙」を見たのだ。
ベルイマンの代表作はもっと別にあるだろう。その後私が見た僅かの中でも、「野いちご」や「秋のソナタ」「ある結婚の風景」などの方が名作かも知れない。
が、私にとって「沈黙」は忘れられない映画になった。そのとき私は初めて、映画の、そして西欧精神の厚みと陰影に触れ、圧倒された思いがした。その後一〇年もしてまた見ているし、今ではヴィデオテープも持っている。
独特の様式と文体を持つベルイマン映画、その中で「沈黙」は、私の個人的な思い出と重なっている。▲
帰国途中の姉妹と妹の息子、姉は病気だ。三人は言葉も分からぬ国でホテルに宿泊する。
翻訳家の姉エステルは、ホテルで仕事を続けながら死と孤独に怯え、酒浸る。妹アナは街に出て男を誘う。
ベルイマンの視点とその語り口はきわめて西欧的だ。チェホフやイプセンのような西欧近代劇の定型に見事に納まっている。
おそらくスウェーデンという西欧の片隅だからこそ残った古めかしい近代劇。
キリスト教道徳と欲望の抑圧、愛をめぐる自我の葛藤。自由を得るための反抗。
しかしベルイマン映画は、近代自我の神話の先にある空虚、神話が沈黙する場所での自我のドラマ、超越者のいない所で対峙する人間の愛憎と呵責、後悔をめぐる記録だ。
我と汝、罵りの中で物語は展開する。父に従い、知的・理性的にふるまおうとしたエステル、欲望に身を委ねるアナ。
しかし、エステルは、自由なアナへの嫉妬に燃え、死の恐怖に怯え、自慰に更ける。
アナも、エステルの知的・理性的優位に対する劣等感を、軽蔑と反抗によって晴らしている。お互いの優位性は、彼らの行為・応酬の中でくるくる入れ替わるが、それを裁くものはいない。神は沈黙しているのだ。▲
西欧キリスト教的思惟は、神に忠実であるか、自己の欲望に正直であるかをめぐって分裂し、この構図は個人の「内
面」に凝縮されて形を結ぶ。
「かくあるべし」と、生身の欲望が、ぎりぎりのところで攻めぎ合う。しかし人間の罪は本当か?われわれは神に迎えられるために、懺悔し、許されなければならないのか?
人は欲望を抑圧し、善良さの仮面を被り、その仮面に耐え切れない。「かくあるべし」の信仰を続けようとする限り、残るのは、「罪ある者」の中で、「道徳的優位者」と「自己の欲望に正直な者」との「不道徳」と「偽善」を巡る裁き合いだ。だが、裁く者は裁かれる。▲
キリスト教は人を抑圧し、人々に「かくあるべし」を要求するが、同時にイエスは、人の罪を許す神ではなかったか?
偽善が暴かれても、自意識はそこに新たな偽善を発見する。重要なのは、仮面を剥ぐことではない。だが、互いを許し合うために、無垢なキリストとして、イエスはそこに登場しない。むしろ登場できないのだ。
近代的な自意識はイエスにも『偽善』を発見せずには置かないだろう。やはり神は沈黙し、人は悔い改めに達することができない。
悔悟がなければ そこに解決はない。それぞれの善意はあまりに無力だ。
だがベルイマンは、沈黙する神に頼らず、自己も他者も、あるがままの弱さを受け入れ、対話を通して深められていく「精神」なるものを信じていくこと、究極的に西欧近代精神をそのようなものとして描いているようにみえる。それは西欧の伝統的な思考、『理性』の一到達点なのである。▲
それにしても、西欧の歴史にあっては、対立・葛藤は、現実の中に含まれる、発展への原動力ではなかったか?
それによって生は深められ、カタルシスもある。神と格闘し、虚無を呼び込みながらも、その克服と救済を求める精神。
それはまさしくヨーロッパ近代が執拗に問い続けた、単純かつ明晰な世界の構図である。
哲学的主題、しかし、西欧哲学は、本来、生を意味づける護神論としてある。キリスト教を否定することさえも、その意味では護教的であり、西欧世界の精神史、つまり、理性を救済する試みとして、西欧精神は、自己否定しつつ、むしろそれによって自己を貫く。▲
西欧近代、あらゆるものを呑み込むこの消化力のいいデーモンが、西欧近代とは根のつながらない他の文化の変貌の行く末と重なり、もはやかつてのものとは似つかないほど変貌をとげるとき、はじめて西欧近代の呪縛は解かれるだろう。しかしそれは、私には未だはるか遠い先のことと思われる。
ベルイマンの世界は、少なくともそれまでは説得力を保ち続けるだろう。▲
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