ビートルズ五枚のアルバム・沈黙(イングマル・ベルイマンの世界)


ビートルズ五枚のアルバム
パラントラ3巻3号1993年1月テーマ)  
「 PLEASE PLEASE ME」 「A HARD DAY'S NIGHT」 「REVOLVER」
「SGT.PEPPER'S LONERY HERTS CLUB BAND」 「LET IT BE」

広瀬 典丈 

後のジョン・レノンによれば「ビートルズはライブ・バンドだったのであり、彼らの最高の仕事は録音なんかされてはいない」。挑発や怨恨を歌にし、観客と全身で共感するロックンロール。「リヴァプールやハンブルクのダンスホールのライブでこそすごいことはなされていた」のだ。六〜七〇年代のフォ−クソング、反戦運動やドラッグ同様、支配文化に対する反文化と意識された彼らの音楽も、売れた後は「毒をぬかれて、死んでしまった音楽」だったばかりなのか?

「PLEASE PLEASE ME」から 「A HARD DAY'S NIGHT」 最後の「LET IT BE」 まで、彼らはロック・ライブによる一体感を最も重視し、一貫してそれを愛していた。対して「REVOLVER」「SGT.PEPPER」は孤独だ。しかしレノンの主張にもかかわらず、彼ら七年間の録音活動は、その世代の青春の見事な成長ドキュメントだったし、ナイーブな生命感があふれている。

ライブの熱狂が伝わるような荒っぽい生きのよさで始まる初のLP 「PLEASE PLEASE ME」も、一方でビートルズの別の面を浮き掘りにした。ポールの「P.S.I LOVE YOU」など感傷的なメロディと通俗性が与える彩り、ザラッとした砂のようなハーモニーやアンサンブルの魅力、異質な二人の共同作業はスジオ録音向きだ。
後半「THERE'S A PLACE」 、ポールのかすれた高音とジョンのビートの利いた幾分低音のヴォーカルハーモニー、息のあった絡み合いが逆に不安定なパタンをくり返す二人の矛盾もあらわにする。
それをふり切る終曲「TWIST AND SHOUT」 の絶叫も最高のノリだ。それはライブ・バンド時代をまとめ、その後のビートルズの音楽活動を開くにふさわしいアルバムだった。

LP 「A HARD DAY'S NIGHT」 は、鬱屈したジョンの「It's been a hard day's night /And I've been working like a dog 」で始まる。それを受けるポールのサビは幸福な「When I'm home everything seems to be right /When I'm home feeling you holding me tight,tight」だ。やり取りの対照がこの曲に豊かな表情を与える。
この後の「恋におちたら」「TELL ME WHY」 のヴォーカルハーモニーやコーラス応答も、詩が持つ感情の揺れを鮮やかに描きだしていく。終曲は不安な「I'LL BE BACK」で、「TWIST AND SHOUT」 のようなカタルシスを用意していない。
曲の新しい試みや技術で表現の世界が広がり、アルバムは完成するが、逆にロックが持つ解放感は失われていく感じだ。
録音技術的な試みは観客との直接のつながりを失わせる。ライブの喪失はその後のアルバムに、階級離脱した故郷喪失者の郷愁と孤独な悲しみを漂わせる。

REVOLVER」はスタジオ録音の実験と主張が前面に出て、それぞれの曲作りの違いも浮き彫りにした。冒頭のジョージは「TAXMAN」という共通の敵によってまとまりを図ろうとする。
しかしその後はポールの「ELEANOR RIGBY」の孤独な下町の人物ストーリーからジョンの瞑想「TOMORROW NEVER KNOWS」 に至るまで、それぞれの音楽的主張が素晴らしいモザイクを作りあげていく。
これほど豊富なビートルズの世界が完壁にまとまっていることはむしろ奇跡的だ。

だからSGT.PEPPER」は全体をサーカス的な夢幻の雰囲気でまとめ、最後に「A DAY IN THE LIFE」で夢から覚める?という仕掛けをする。ペッパー軍曹の楽隊オープニングからエンディングまで、劇中劇は多彩で輝いているが、それを受ける「A DAY IN THE LIFE」 はそれまでの夢を全て引き裂く。
ジョンの歌 「I read the news today oh boy//And though the news was rather sad/Well I just had to laugh」には疲れと幻滅が漂う。
ストリングスの騒音がうねりを上げると、ピアノとドラムの間から、ポールの歌「Wake up,fell out of bed/Dragged a cumb across my head//And looking up I noticed I was late」 で息せき切った日常生活へ逆戻りだ。と思うと夢、アーというコーラスと共にオーケストラが入って、再びジョンに戻る。二つの断片は夢の交錯のように巧くつなぎ合わされている。
「SGT. PEPPER」 の甘い幸福感は郷愁が漂う場面だけで、全体の孤独なトーンはその後のグループの分裂を予感させる。

そしてLET IT BE」
ばらばらの主張、軋みや葛藤の歌がそのまま歌われる。だが、屋上ライブのようなロックへの回帰指向、ライブのノリが対立を越えて四人を一つにすることもある。「I'VE GOT A FEELING」は例のジョンとポールの別曲のくっつけ合わせだ。
「I've got a feeling/A feeling deep inside」 、思い出に戻ろうとする感傷と、ロック・ライブに誘う気持ちがポールを昂ぶらせ、あふれる感情を抑えられない。
それに答えるジョンの覚めた諦めの雰囲気は印象的だ。「Everybody had a hard year/Everybody had a good time」。
ここでは二人のパートは完全に分裂し、それでもコラージュのような対比がこの対立を不思議なまとまりのうちに置く。


沈黙(イングマル・ベルイマンの世界)

パラントラ3巻6号1993年7月テーマ)   

広瀬 典丈   

 中学時代、学校は映画館に行くことを禁止していたが、私は雑誌の映画評で、ヨーロッパ映画の新しい流れについて読んでいた。
そこでは、ゴダールやトリュフォーらと共に、なぜかスウェーデンの映画作家、イングマル・ベルイマンの名と、「夏の夜は三たび微笑む」「沈黙」などの紹介がされていた。一九六六年、私は岐阜の小さな劇場で「沈黙」を見たのだ。
ベルイマンの代表作はもっと別にあるだろう。その後私が見た僅かの中でも、「野いちご」や「秋のソナタ」「ある結婚の風景」などの方が名作かも知れない。
が、私にとって「沈黙」は忘れられない映画になった。そのとき私は初めて、映画の、そして西欧精神の厚みと陰影に触れ、圧倒された思いがした。その後一〇年もしてまた見ているし、今ではヴィデオテープも持っている。
独特の様式と文体を持つベルイマン映画、その中で「沈黙」は、私の個人的な思い出と重なっている。

帰国途中の姉妹と妹の息子、姉は病気だ。三人は言葉も分からぬ国でホテルに宿泊する。
翻訳家の姉エステルは、ホテルで仕事を続けながら死と孤独に怯え、酒浸る。妹アナは街に出て男を誘う。
ベルイマンの視点とその語り口はきわめて西欧的だ。チェホフやイプセンのような西欧近代劇の定型に見事に納まっている。
おそらくスウェーデンという西欧の片隅だからこそ残った古めかしい近代劇。
キリスト教道徳と欲望の抑圧、愛をめぐる自我の葛藤。自由を得るための反抗。
しかしベルイマン映画は、近代自我の神話の先にある空虚、神話が沈黙する場所での自我のドラマ、超越者のいない所で対峙する人間の愛憎と呵責、後悔をめぐる記録だ。

我と汝、罵りの中で物語は展開する。父に従い、知的・理性的にふるまおうとしたエステル、欲望に身を委ねるアナ。
しかし、エステルは、自由なアナへの嫉妬に燃え、死の恐怖に怯え、自慰に更ける。
アナも、エステルの知的・理性的優位に対する劣等感を、軽蔑と反抗によって晴らしている。お互いの優位性は、彼らの行為・応酬の中でくるくる入れ替わるが、それを裁くものはいない。神は沈黙しているのだ。

西欧キリスト教的思惟は、神に忠実であるか、自己の欲望に正直であるかをめぐって分裂し、この構図は個人の「内 面」に凝縮されて形を結ぶ。
「かくあるべし」と、生身の欲望が、ぎりぎりのところで攻めぎ合う。しかし人間の罪は本当か?われわれは神に迎えられるために、懺悔し、許されなければならないのか?

人は欲望を抑圧し、善良さの仮面を被り、その仮面に耐え切れない。「かくあるべし」の信仰を続けようとする限り、残るのは、「罪ある者」の中で、「道徳的優位者」と「自己の欲望に正直な者」との「不道徳」と「偽善」を巡る裁き合いだ。だが、裁く者は裁かれる。

キリスト教は人を抑圧し、人々に「かくあるべし」を要求するが、同時にイエスは、人の罪を許す神ではなかったか?
偽善が暴かれても、自意識はそこに新たな偽善を発見する。重要なのは、仮面を剥ぐことではない。だが、互いを許し合うために、無垢なキリストとして、イエスはそこに登場しない。むしろ登場できないのだ。
近代的な自意識はイエスにも『偽善』を発見せずには置かないだろう。やはり神は沈黙し、人は悔い改めに達することができない。

悔悟がなければ そこに解決はない。それぞれの善意はあまりに無力だ。
だがベルイマンは、沈黙する神に頼らず、自己も他者も、あるがままの弱さを受け入れ、対話を通して深められていく「精神」なるものを信じていくこと、究極的に西欧近代精神をそのようなものとして描いているようにみえる。それは西欧の伝統的な思考、『理性』の一到達点なのである。

それにしても、西欧の歴史にあっては、対立・葛藤は、現実の中に含まれる、発展への原動力ではなかったか?
それによって生は深められ、カタルシスもある。神と格闘し、虚無を呼び込みながらも、その克服と救済を求める精神。
それはまさしくヨーロッパ近代が執拗に問い続けた、単純かつ明晰な世界の構図である。
哲学的主題、しかし、西欧哲学は、本来、生を意味づける護神論としてある。キリスト教を否定することさえも、その意味では護教的であり、西欧世界の精神史、つまり、理性を救済する試みとして、西欧精神は、自己否定しつつ、むしろそれによって自己を貫く。

西欧近代、あらゆるものを呑み込むこの消化力のいいデーモンが、西欧近代とは根のつながらない他の文化の変貌の行く末と重なり、もはやかつてのものとは似つかないほど変貌をとげるとき、はじめて西欧近代の呪縛は解かれるだろう。しかしそれは、私には未だはるか遠い先のことと思われる。
ベルイマンの世界は、少なくともそれまでは説得力を保ち続けるだろう。

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