大西さんのこと
(パラントラ3巻7号1993年8月テーマ)
広瀬 典丈
最近、私達の岐阜の展示会のおり、愛想の良い顔で登場した老婦人は、私の小学一年生の時の担任教師だった。彼女は今も請われてどこかで教育問題の講習を行っているのだという。私はその教師が嫌いだった。彼女は富裕な社長婦人だったが、子供好きで教員をしていた。父母の評判も上々、良い先生で通っていた。まったく彼女は成績の良い模範生が可愛くてならない一方、宿題をしない生徒、成績の悪い生徒を容赦しなかった。宿題を山ほど出して毎朝点検し、やってない生徒を前に出しては、「お前たちは、梅林駅(小学校の近所にあった電車駅で、その頃まだ浮浪児の溜り場だった。)の浮浪児になりたいのか?宿題をしないものは浮浪児になれ」などと罵った。未経験な小学一年生は恐怖で泣き出す者もいたが、実際当時の引揚げ者の子供は、ボロをまとってスラム生活をしていたから、その言葉は妙に迫力があった。しかし、私は浮浪児が宿題をやらないことで生まれたのでないことを知っていたから、彼女を軽蔑せずにいられなかった。▲
中学一年に入って間もなく、父が、街で大西さんに会ったので、懐かしくて、一度ぜひ家を訪ねるように言ったと言う。日を経ず彼女はやってきた。彼女とは十年あっていないし、私は当時三〜四歳だったからうろ覚えだが、痩せて目のギョロギョロした、おしゃべりな人だったと思う。見違えるほど洗練され、パーマをかけた巻き毛を長く伸ばした彼女は素敵だった。▲
大西さんは母が既成服の纏めの内職をしていた頃、手伝いに来ていた何人かの少女のうちの一人なのだ。二十歳を少し過ぎたばかりの母と少女達は、読書会や映画談議をして、我が家は貧乏文学少女のサロンだった。彼女は中学卒業したてで、一年ほどいた。その後洋裁学校を卒業して、既製服メーカーでデザインをしていた。▲
大西さんは満州(中国東北部)からの引揚げ者だ。父親は満州鉄道に勤めていたが、敗戦直前に病死、九歳で母親と二人引揚げ船に乗った。船中で母親が死亡、帰国後は年の離れた腹違いの姉に引き取られている。
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再会後、大西さんはたびたび我が家に来た。父母は仕事で外出が多かったから、今度は姉と私が彼女のサロンの客になった。その体験がどんなものであったか、私は知らない。別に話もしなかった。私の話題を彼女は気に入り、本や映画の話もした。ちょうど、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』『メリー・ポピンズ』等が輸入された頃だ。「どっちがいい?」と訊く彼女の思いを分かってはいたが、私は『メリー・ポピンズ』と答えた。ふだんの会話と違う私の幼い答えに彼女はがっかりした。しかし私にも言い分がある。『サウンド・オブ・ミュージック』は『ジェーン・エア』などで馴染みの少女文学の定型だ。ナチとそれへの抵抗という図式も単純だが、トラップ家の思想は、ナショナリズムの方向は違っても、ナチズムと相似のものだ。私は巧く言えなかったが、『サウンド・オブ・ミュージック』の底の浅い戦争観や平板さをとやかくけなした。▲
だが無論私は間違っていた。私には体験が欠けていた。彼女は、映画に自分の引揚げ体験を重ね合わせている。映画は作られる過程ではその作者達のものだが、作られた後はその意図を越えて観賞者に委ねられる。彼女の語られない物語が映画に込められている。私が分からないだけだ。それでも個人の体験はけっきょく他の誰にも伝えることなどできない。その人の生の道連れに過ぎない。彼女の孤独は彼女のものだ。▲
大西さんは結婚を考えていた。友人を介して見合いし、少しの間付き合った。しばらくその話題が消えたので、私が尋ねると、「あれはもうおしまい。今から思えばよくあんな男と一度は結婚を考えたものだ」と言った。その男の誠意というようなことではなく、無教養さをなじっていたようだ。彼女は中卒の孤児だから、見合いではそれに釣り合う男が紹介される。彼女の誇りが結婚に水を差したと私は思い、今度は私が失望した。私は「結婚して家族を持つべきだ」と言った。ここでも無論私には具体的な体験が欠落していた。▲
私が高校に入学する頃、大西さんは家に来なくなった。古い家を借りて独立し、若い少女達と洋裁店を始めたのだ。そして間も無く胃癌になった。入院してからも仕事を続けた。▲
私は気が重くて見舞いに行かなかった。彼女は、医師の反対を押して、以前付き合っていた男の、子を生み、その子を里子に出し、一九七〇年三十四歳で死亡した。当時自分のことで目いっぱいだった私は何の感慨も無くその話を聞き流した。▲
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