モロー・藤井勉・ムリリョ・カラヴァッジョ


私の好きな画家
パラントラ3巻4号1993年3月)

広瀬 典丈  

モローの大規模な展覧会があった一九六五年春、それを見た私はモローに夢中になった。身近にモローを知る人が無い頃「モローがいい」と言えることは快感だ。ムリリョを『発見』したのも同じようなことだった。

一九七七年、読売新聞日曜版に藤井勉の絵が紹介された。 私は何故かその絵で、伝徽宗筆の「冬景山水図」の寂寥感を思い出して、藤井勉のファンになった(今は『誤解』だと思っている)。やはり当時藤井勉を知る人は近くにいなかったが、今の彼は有名だ。しかし、私の熱は冷めている。

最近行った美術館で、私はカラヴァッジョを知った。これはすでにみんな知っていて、私が遅れていたのだ。

今、私は「木版浮世絵」を少し持っている。北斎、広重、国貞、国芳、月岡芳年、水野年方など、案外かんたんに手に入ることに驚いてしまう。所有すれば、それまでの『好き』が、マニアックな愛情に変わる。

私が『好き』なのは『私』が『発見』した画家だ。他にも、フェルメール、渡辺崋山、コロー、モネ、ワイエスと挙げていくと、有名ではあるにしても、私が知るアカデミズムの紋切り美術史の中では、批評家によって、有名画家達に対 するマイナー位置に置かれるか、俗受けとけなされたりする画家だと、私は思い込んでいる。しかし一方、私の好きな画家達は大衆レヴェルでは支持されているか、少なくとも一度は支持されていた画家達である。

「私の好きな画家」といったテーマで、好きな画家をあげていけば、画家という尺度を通して『私』の方も浮かび上がる。それはまず、「私は、こんな画家が好きな人間です」と表明する『自意識』としての『私』だが、そうでないにしても、書くという行為が『私』を語ることから免れることはできない。語る私の『視点』が、逆に私を照らすからである。『視点』が誰にも共有されていれば、めざされたものだけが意識化され、『自己意識』など入り込む余地はない。『視点』が意識化されるのは、人々が同じ所で同じように考え、行動する、パタン化された生活の場から、多様な人間関係に移ったときだ。近代社会は、そうした多様な人間関係を一般化し、『独創的』な『視点』をエリートの印として特権化する。作者と『視点』を共にする『作品理解者』は、『芸術家』を中心にいただく新しい村、エリートサロンの上客になれる。

『自意識』が問題になり、『芸術家』が『自己』を『表現』するようになった『近代芸術』以後では、『芸術家』の頭を支配して来たのは、自分を『独創的』な『芸術家』として示す手段としての『芸術』であり、『芸術』とは、『独創的』な『視点』や方法を競う『芸術家』としての『自意識』表明の場以外のものではない。『芸術家』は知的サロンの主役として、スノブの本領を発揮するために、ますます『自意識』過剰になる。

しかし最近では、幸いにも知的サロンの主役は変わったらしい。今では『芸術』は、絶対的な理解を要求する力を持たず、『観賞者』の自由な『読み』に委ねられた一『テクスト』としてあることが『明らかになった』。この民主主義はすばらしいが、これも実は、『批評家』と呼ばれる、さして新しくもない『観賞者』を特権化した、エリートサロンの再編にしかならなかったのではないかと疑われる。

「私が好きな画家」を挙げることは、『私』の『視点』を示すことだ。
画家も、描くことによって『視点』を描き込み、図ってか図らずもか『私』を語る。しかし、作者の行為の切実さが感じられるのは、作者がその『視点』の普遍性を信じながら、それとは裏腹な孤独にあるような場合だ。見る側は必ずしも作者と『視点』を共有できるとは限らず、それでも伝わってくる画家の孤独に対して術が無い。しかし、説得されなくても、『切実感』が見る側に伝われば、受け身と思った自分が読み込みによって絵に介入し、絵は生きかえる。見る側が絵に生命を与える時、絵は画家の手を離れる。絵に画家の刻印が封じ込まれていても、見る側はそれを読むだけだ。「私の好きな画家」は、『私』が受け取り、『私』の中で生命を与えられる、『私』にとって大事な絵の中の画家であって、実際の画家ではない。他の人の『視点』に捉えられる画家でもない。私には好きな画家がある。それは私にとってすばらしい。その同じ画家を誰かが褒めると、私は嬉しくなって、画家談議を始めてしまう。これはおそらく不幸なことだ。絵を見るためには静かな環境が一番である。


大西さんのこと
パラントラ3巻7号1993年8月テーマ) 

広瀬 典丈  

最近、私達の岐阜の展示会のおり、愛想の良い顔で登場した老婦人は、私の小学一年生の時の担任教師だった。彼女は今も請われてどこかで教育問題の講習を行っているのだという。私はその教師が嫌いだった。彼女は富裕な社長婦人だったが、子供好きで教員をしていた。父母の評判も上々、良い先生で通っていた。まったく彼女は成績の良い模範生が可愛くてならない一方、宿題をしない生徒、成績の悪い生徒を容赦しなかった。宿題を山ほど出して毎朝点検し、やってない生徒を前に出しては、「お前たちは、梅林駅(小学校の近所にあった電車駅で、その頃まだ浮浪児の溜り場だった。)の浮浪児になりたいのか?宿題をしないものは浮浪児になれ」などと罵った。未経験な小学一年生は恐怖で泣き出す者もいたが、実際当時の引揚げ者の子供は、ボロをまとってスラム生活をしていたから、その言葉は妙に迫力があった。しかし、私は浮浪児が宿題をやらないことで生まれたのでないことを知っていたから、彼女を軽蔑せずにいられなかった。

中学一年に入って間もなく、父が、街で大西さんに会ったので、懐かしくて、一度ぜひ家を訪ねるように言ったと言う。日を経ず彼女はやってきた。彼女とは十年あっていないし、私は当時三〜四歳だったからうろ覚えだが、痩せて目のギョロギョロした、おしゃべりな人だったと思う。見違えるほど洗練され、パーマをかけた巻き毛を長く伸ばした彼女は素敵だった。

大西さんは母が既成服の纏めの内職をしていた頃、手伝いに来ていた何人かの少女のうちの一人なのだ。二十歳を少し過ぎたばかりの母と少女達は、読書会や映画談議をして、我が家は貧乏文学少女のサロンだった。彼女は中学卒業したてで、一年ほどいた。その後洋裁学校を卒業して、既製服メーカーでデザインをしていた。

大西さんは満州(中国東北部)からの引揚げ者だ。父親は満州鉄道に勤めていたが、敗戦直前に病死、九歳で母親と二人引揚げ船に乗った。船中で母親が死亡、帰国後は年の離れた腹違いの姉に引き取られている。

再会後、大西さんはたびたび我が家に来た。父母は仕事で外出が多かったから、今度は姉と私が彼女のサロンの客になった。その体験がどんなものであったか、私は知らない。別に話もしなかった。私の話題を彼女は気に入り、本や映画の話もした。ちょうど、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』『メリー・ポピンズ』等が輸入された頃だ。「どっちがいい?」と訊く彼女の思いを分かってはいたが、私は『メリー・ポピンズ』と答えた。ふだんの会話と違う私の幼い答えに彼女はがっかりした。しかし私にも言い分がある。『サウンド・オブ・ミュージック』は『ジェーン・エア』などで馴染みの少女文学の定型だ。ナチとそれへの抵抗という図式も単純だが、トラップ家の思想は、ナショナリズムの方向は違っても、ナチズムと相似のものだ。私は巧く言えなかったが、『サウンド・オブ・ミュージック』の底の浅い戦争観や平板さをとやかくけなした。

だが無論私は間違っていた。私には体験が欠けていた。彼女は、映画に自分の引揚げ体験を重ね合わせている。映画は作られる過程ではその作者達のものだが、作られた後はその意図を越えて観賞者に委ねられる。彼女の語られない物語が映画に込められている。私が分からないだけだ。それでも個人の体験はけっきょく他の誰にも伝えることなどできない。その人の生の道連れに過ぎない。彼女の孤独は彼女のものだ。

大西さんは結婚を考えていた。友人を介して見合いし、少しの間付き合った。しばらくその話題が消えたので、私が尋ねると、「あれはもうおしまい。今から思えばよくあんな男と一度は結婚を考えたものだ」と言った。その男の誠意というようなことではなく、無教養さをなじっていたようだ。彼女は中卒の孤児だから、見合いではそれに釣り合う男が紹介される。彼女の誇りが結婚に水を差したと私は思い、今度は私が失望した。私は「結婚して家族を持つべきだ」と言った。ここでも無論私には具体的な体験が欠落していた。

私が高校に入学する頃、大西さんは家に来なくなった。古い家を借りて独立し、若い少女達と洋裁店を始めたのだ。そして間も無く胃癌になった。入院してからも仕事を続けた。

私は気が重くて見舞いに行かなかった。彼女は、医師の反対を押して、以前付き合っていた男の、子を生み、その子を里子に出し、一九七〇年三十四歳で死亡した。当時自分のことで目いっぱいだった私は何の感慨も無くその話を聞き流した。

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