ソフィの世界・エントロピーとホメオスタシス

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「ソフィの世界」を読んで
ヨースタイン・ゴルデル著、NHK出版7995年発行)
●最近読んだ本のこと(パラントラ4巻5号1996年5月)

広瀬 典丈

人がその住む世界に向かって立てる問いには、すでに答は用意されている。

人が生き、問い、答える、それは絶え間なく学び続けるお定まりのコースで、与えられる世界は連綿たる繰り返しだが、状況に応じて変わる不思議に柔軟な枠組でもある。

動物にとって環界が、彼らの感覚の組織化によってもたらされるように、人間を縛る言葉や文化も組織化された第二の自然であり、彼がその足場を外された時以外には、からめ捕られた場所から外に出ることは難かしい。

「ソフィの世界」は西洋の哲学史について書かれた、おもしろくも易しい入門書だ。しかし、むしろそれ以上に、人の意表を突くファンタジーとしての西欧の物語文学の系譜につながっている。それが、じゅうぷん練られた構成によって哲学史上の出来事と見事に重ね合わされ、しかも哲学の最初の間い、『私は講?』『私はどこから来たの?』という、驚きを含む問いに読者を引き込む巧妙な仕掛けになっている。
ゴルデルは彼が生まれ生きる西欧文化の正当な継承者として、その文化を次代に渡そうという健気な精神の持ち主なのである。

ゴルデルは物語を入れ子にして「ソフィの世界」の作者を作中に登場させる。彼は、芸術家の高揚した意識の産物として、芸術作品の場を、作者の理性を越えたものとして設定し、しかもそれを足場に、作者に対する批評まで試みる。それは、西欧的な対話による一人芝居だが、対話は袋小路に入り登場人物は脱出できない。それが読者に端なくも露呈する。

「ソフイの世界」の作者は国運軍の少佐アルベルトである。彼は『エコロジー』『フェミニズム』『新宗教』等、現代に関わるさまざまな問題に言及する。
国連の問題では秩序と暴カの関係から理性が問われ、エコロジーでは人間存在と宇宙との関連が問われる。

新宗教に対しても彼は哲学の優位を主張する。だが哲学を持つローマはキリスト教というカルトに乗っ取られ、西欧が哲学という批評精神を取り戻すのに、彼の言葉を借りれば、千年という歳月を必要としたのだ。

この作者は、自我の自由が全て神あるいは自然によって握られていると仮定した場合に、『想像力』の生み出す世界を盾に取る。理性が力を及ぼさない無意識に自由の可能性を考える思想だ。ミヒャエル・エンデなどとも通じるが、古くからある信仰である。例えばトランス状態で、その構想を越えたところに作品を生み出す芸術家。

しかし高揚した自我が呼び込むのは世界精神や国家など超越的な力である。夢と現実の対立や、その夢に自由を仮託する神話は、世界をやりくりする人間のこれもまた方便に過ぎまい。

『自由』とは『自己意志』である。人は自分が世界の主人公たることを望み、自我が『世界精神の窓』として君臨できると考える。そして作者の言う「ロマン主義のイロニー」が束の間作家を夢から覚ます。自己言及が自分の足場を批評する。だがそれが批評精神なのか。

彼も認めるように、これは全てモノローグであり裂け目がない。全てが閉じられることで全世界が構成される。充足で見失われるのは自我の住み処、一人の生のかけがえの無さだ。

もしその人の存在の場所が彼をして語らせているのだとすれば、彼の夢が彼を動かすのではない。人間も動物も、その還界に応じて世界を立てる、甲羅に合わせて穴を掘るのである。ここでの世界とは、人間の都合によって現れる現象だ。

彼は哲学を「戦争や暴力に対抗するためのいちばんの方法」と主張するが、道徳や良心の問題は、天使が飛びかう世界から、肉体を持って生きる人間の場所に移さなければ、一人の人間の生死と結びあう問題とはならない。

哲学者は、子供の驚きをずっと保持し続けている人々だと作者は言い、人間を、1・世界に慣れっこになっている投げやりで無関心な人々、2・世界に慣れっこになどならないと誓うはつらつと生きる人々、に二分する。(価値評価をあからさまに入れるのは非哲学的だ!)

ふつうの子供は哲学者や芸術家と違い、存在の驚きを保特するよりは、教えられる世界を無条件に受け入れていく。言葉や文化の受け入れが一段落し自分の世界を外に開こうとする時こそ、世界に対する批評精神は生まれる。子供が大人になっていく過程の出来事だ。

この物語作者は哲学者を世界に対する決断とみなしているが、若者が哲学者としての若い決断を支えられるのは、彼らが世界について考える外に日常世界に割り当てを持たないからだ。彼の二分法は、『貴族と奴隷』『知識人と生活者』『エリートと大衆』という、実践知や経験知よりも観念知を特権化する西欧の古典図式の延長線にある。

物語最後の不条理劇も、アルベルトがソフイにもっと良い人生をくれるという暗示と共に『おとぎの国』へ旅立つという趣向だが、肉化された世界が私たちの手ごたえとしての世界であれば、エデンの園を出るソフィに、世界はけっきょく約束されはしないだろう。


エントロピーとホメオスタシス
●特集‥最近読んだ本のこと
(パラントラ3巻8号1993年12月テーマ)

広瀬 典丈  

新聞の投書欄で『初老』という言葉に触れたものがあったが、『初老』とは四十代の別称であるらしい。
「老化とは何か」(今堀和友著、岩波新書297)によれば、生物の寿命は、1.誕生から性成熟、2.生殖期、3.後生殖期に分けられるという。
3.後生殖期が老年期だから、初老=四十代は妥当な捉え方だろう。日本人の二人に一人は人生の半分を老人として生きるわけだ。

その本によると、2.生殖期は「ホメオスタシス」と呼ばれる「内外の変動から身を守る機構が働く期間」であり、それ以降はそれが衰えていくのだという。
「ホメオスタシス」とは恒常性、身体の状態が一定に保たれていることを意味する。それが機能する間は、ストレスに対する復元力が働くから、生命は一定の円環内に留まることができる。
話が難しいが、この機構を別の本「エントロピー入門」(杉本大二郎著、中公新書774)も援用して説明すれば、「生命は負のエントロピーを食べて生きている」と表現されるらしい。

「エントロピー」も最近あちこちで流行る言葉だが、元来熱力学の法則で使われる「乱雑さの尺度」とされ、「全ての変化はエントロピーの増大する熱平衡状態に向う」という。これは、非可逆過程であり、生命にとっては死である。
「エントロピー入門」では、生命のようなホメオスタシスを「金を稼ぎ、消費しつつ維持されていく生活」という図式で説明している。

この場合、金が低いエントロピー、消費が高いエントロピー、その差し引きによって、生活は一定の低いエントロピーに保たれるというわけである。エントロピーがベクトルとしての時間であるのに対して、ホメオスタシスは、エントロピーのベクトルをしばらく抑制させる循環システムということになるだろうか。

ところで、この本によると、地球も生命と同じように、低いエントロピーを取り入れて、高いエントロピーを宇宙空間に捨てるシステムを持っている。現在の人間の生産活動は、火山噴火などと同じように、こうしたメカニズムを破壊するストレスであり、地球というホメオスタシス機構が抱えた脅威なのである。

エントロピーの概念は、熱力学に始まって、統計力学、情報理論に拡張され、今では、経済学や歴史理論にまでその応用が試みられているようである。しかし実際にはまだ比喩的な議論に留まっているのだそうだ。
だが、私達のような門外漢は、簡単に飛躍できるから、エントロピーはともかくとして、ホメオスタシスとその破壊といった視座で歴史が見えて来れば、ヘーゲル流の、超越的精神の進歩発展史的な見方をようやく克服できるのかという気になる。
ホメオスタシスが崩れるのには様々な要因があるだろうが、情報伝達の乱雑化もその一つと考えれば、ある文化の崩壊を制度そのものの老化として説明することも、あながち無理とは思えなくなる。

最近ヨーロッパとは何か」(K.ポミアン著、平凡社)を読んだ。題名とは違って、ヨーロッパを説明してくれる本とは思えないが、ローマ崩壊から第二次大戦までのヨーロッパ史を、分裂と統合を軸に手際よくまとめている。
境界線によって防衛されたローマ帝国は、農業を基盤とした都市型の文明を持ち、官僚機構と軍団と成文法による、貴族と農民と奴隷の階級社会である。

北に広がるゲルマニアとスキタイは、放牧と農業、物々交換による部族集団に分れ、相互に戦争し、ローマに奴隷を供給する。ヨーロッパの成立とは、ローマ帝国へのゲルマンの侵入と帝国のシステムの崩壊、新たなシステムの形成、いわゆる封建制の成立である。

こうして成立したヨーロッパは、一方に部族対立を持ちながら、他方でローマ化によって自らの「野蛮」を克服し、民族ごとの国民国家を成立させつつ、キリスト教と修辞学によって啓蒙主義的つまりは膨張主義的なローマ世界の再興拡大を企画する。
この著者は、ナショナリズムの葛藤や階級対立をはらみながらも、ヨーロッパが、けっきょくは少数が支配する小さな部族集団から、多数者のアイデンティティに支えられる国民国家群に変貌していったことを、歴史の流れとして見ているのである。
ヨーロッパは、自己のアイデンティティを重ねられると思える精神的親族枠を拡大し、同時に世界の枠も地球規模に拡張した。
膨張的なシステムがもたらした「民主主義」と「国家主義」へのこの変化も、エントロピーのようなベクトルとしての「歴史」だ。

先の本に戻ると、「エントロピーに関しては、いろいろな人があいまいでエントロピーの高い表現をし」ていると著者は言う。さしずめ私も、読書によって低いエントロピーを取り入れ、ノイズで歪め、高いエントロピ−に変換して今これを放出しているということになるのだろうが…。

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